生と死と


 

積丹半島古平町のトンネル崩落事故(1996年2月)から来月でやがて9年になろうとしています。事故発生当時からトンネルと道路を管理する開発局の対応の鈍さと「事故の予測はできなかった」という責任逃れには呆れていましたが、彼らには、犠牲者の無念さや家族を失った町民の気持ちは通じないのでしょうか。

崩落事故の予測ができようができまいが、開発局、つまり国には管理者としての責任があるのは当然です。そもそも火山灰が固まった崩落しやすい地質の断崖絶壁の下にトンネルの出入り口を開けること自体が危険な行為であり、安全管理を重視するならばそのような工法は避けなければならなかったのです。

ここで、生と死について考えてみましょう。
死んだ原因のことを普通、「戦争で死んだ」とか「交通事故で死んだ」「トンネルの崩落事故で死んだ」「薬害エイズで死んだ」などといっていますが、ほんとうは「死ぬ」ということと、「殺される」ということとは区別して考えるべきだと思います。

つまり、「戦争で死んだ」とか「交通事故で死んだ」「トンネルの崩落事故で死んだ」「薬害エイズで死んだ」ことは、実際は「殺された」ことであると思います。
例えば、病気で死んでゆくばあいも、多くは病源菌によって無理やりに殺されたことであります。事故でもなく、病気でもなく、老いて自然に死んでゆく、その自然死「老衰」こそ、ほんとうに死んだということであると思います。しかし、自然死よりも病死や事故死が圧倒的に多いのが現実です。

死の恐怖におびえ、生と死の問題を問題にせずにいられないのには原因があります。
最大の原因は、自分が事故やテロあるいは薬害や戦争によって、いつ殺されるかわからない世の中に生きていることにあると思います。

この社会には、死の恐怖を生みだすような、そういう危険が山ほどあります。人間は、なによりも生命の不安をいちばん鋭敏に感じます。自分がそれを感じていると意識しなくとも、その意識以前の状態で反射的にそれを感じます。言いかえれば、からだで死の恐怖を感じます。

「からだで感じたこと」が意識を襲って、死の恐怖という観念をつくりだします。生命の不安を感じさせるものには、事故や病気そして戦争ということがあります。
これが一番大きい恐怖の原因となります。直接、それらを経験しなくても話にきいただけでも、それは死の恐怖の原因となりまず。

それから、災害、失業、生活苦、全て、からだで生命の不安を感じさせる事情になっています。死を恐怖する感情は、いつ、どこで、自分の意識を襲うか全く決まっていません。わけもなく、心を襲います。それは意識以前に、このからだが反射として、あるいは本能として生命が危険を感じているからです。


それでは、死の恐怖から逃れるにはどうしたらよいのでしょうか。
一つは、生命を神仏にまかせてしまうのです。そうすると自分の生死が他人ごとになってきます。そういう道もあります。

もう一つの道は、生命を脅かす一切の危険を現実にこの世界からなくしてゆくことであります。戦争がもう二度とふたたびおこらないようにすること、原水爆の実験もやめさやるようにすること。それから、災害、テロ、薬害、事故をなくすことのできる、そういう政治や社会をつくりだすことであります。

また病気については、医学を発達させます。そして充分に予防や治療措置ができるような世のなかをつくることであります。そういう世の中がこなくても、そういうことができるのだという自信が生まれてきますと死の恐怖は少なくなってゆくと思います。

自分がいつか殺されるというのに、そういうことを前にし安心して「悟り」をひらいているようなことは、一見偉そうに見えますが自己の生命にたいする侮蔑であると思います。宗教において生死を超越するなどというのは生命を軽く考える思想であると考えます。

人間にとって一番大切なものは生命であります。その生命の不安にたいして恐怖することは人間として自然のことであります。それを恐怖するからこそ平和が生まれ、科学の発達も推進されてきます。

しかし、殺されることが全く無くなったとしても、人間には避けられない自然死ということがあります。仏教では、「生者必滅」(生きているものは、必ず死ぬ)といっています。そうして仏教は生きることと死ぬことの、この二つのことを並べて、この二つの重さを等しいと見ています。

例えば、生まれることをプラス5とし、死ぬことはマイナス5として、プラスマイナスして、人生をゼロと見ています。「死とは人生をゼロにする」というのです。はたしてそういうものでしょうか。

生物は、よく発達した高等なものになるほど、生と死がはっきり分れています。下等な生物ほど、自己分裂をしたりして生と死がはっきりしていません。下等なものは繁殖がすなわち死です。しかし、死とはなんであるかという死の本質は、下等な生物に最も単鈍なかたちであらわれています。

生物にとって死とは繁殖であり、より発達した生をつくりだすことであります。死は生の否定のように考えられていますが、もともとは死は、より大きい生の肯定であります。一粒の麦は、みずから死んでゆくことによって、何百粒の麦をつくりだしてゆきます。
つまり、生きているから死ぬのではなく、自分より以上の生をつくりだすから生物には死があります。


バイ菌のような下等な生物は、親が子どもを育ることがありません。そのために、繁殖はしてもその成長は不確実となります。哺乳動物のようなものになりますと親が子どもを守りながら育ます。そうすることによって、その繁殖は確実となります。確実となって行くあいだ親は生きています。そして、生きていたその親がやがて死んでゆきます。

死の意味を考えるについて、重要なことは生を自分ひとりの孤立したものとして見ないことであると思います。生は孤立しては成りたちません。連続した流れの中に自分の生は成りたっているからです。

おわり



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