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2002年05月06日
【回想録「7」】
‥…― エピローグ ―…‥
私の名前は、将来、代議士にでも立候補したときに、有権者に分かり易いようにと祖父が命名したという。いかにも昔流の考え方である。
父親は母との結婚前、九州の佐世保で占領軍の通訳を兼ねて旧軍部の残務整理をおこなった経験もあり英語はペラペラであった。そうしたこともあり私には外交官か野球選手にでもなって欲しいという願いがあったらしい。しかし野球選手に英会話が必要なのであろうか。いや、父親は将来、スポーツ国際化の時代が来ることを予見していたのかも知れない。

一方、私を少年少女合唱団に入団させることに失敗した母親は、今度は絵を習わせることにしたのである。音楽にしても絵画にしても母親が得意とするところだったが、私を世に出すにはどうしても有名な師匠の指導と権威が必要であったようだ。

【弟と蘭島海岸にて(右側が私)】
私は学校では、やんちゃ坊主だが家では良い子であった。
たとえばお客さんがみえたときは両手をついて挨拶することを躾けられ、それを忠実に実行した。このように祖父や両親の前では礼儀正しい良い子であり、近所でも礼儀の正しさで有名であった。さぞかし両親は鼻高々であったことだろう。しかし私は祖父や両親の期待をことごとく裏切り、代議士でもない野球選手でもない別の方向に向かって全力で走り続けた。

「故郷は」と聞かれると、私は、「札幌市中央区北4条西20丁目」と答える。私が生まれ育ったところには、たくさんの思い出があり、いま、クルマで近くを通ると、どこからか子供達の声が聞こえてくるような気がする。
当時、私が住んでいたところには大きなマンションやビルが建ち並び、お寺が建っていた場所は、どこかの会社の営業所になっている。電車通りの東側にあった商店街には、僅かではあるが昔の面影がある。既に電車は廃止され、片側2車線の舗装道路になりタクシーやマイカーなどで渋滞している。
札幌西高校があったところは他の学園になっており、幼年時代に遊んだポプラの木や大きな鉄棒は見あたらない。

長い年月で街は変貌しても、そのとき見た空は変わらない。手稲の山々が赤く染まるとき、いつも歌った「手稲の頂き白い雲 大きく育てと呼ぶところ」と日新小学校の校歌が響きわたる。

しかし、日新小学校の同窓生名簿に、転校していった私の名前はない。
 おわり 
2002年5月6日 石川 栄一
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最終更新日 2022/12/18 access counter
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元北海道大学大学院工学研究科・工学部 文部科学技官 石川 栄一
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