《昭和二十年代初期》 私が生まれた頃は、皆、貧乏であった。電化製品といえば照明器具や電気蓄音機とアイロンくらいで、テレビはもちろんの事、冷蔵庫や洗濯機もまだ一般家庭には普及していない時代であった。母親の実家があった黒松内村ではランプ生活であった。
なぜ、我が家に電気蓄音機(デンチク)があったかというと、父親は洋画が好きで、よく映画を見に連れて行かれたものである。デンチクは、その洋画の主題歌を聴くために必要だったようだ。
私には童謡のレコードを買って聴かせてくれた。当然、SPレコードの時代である。
市民の足は、国鉄と市電とバスで、クルマを持っている者は、どこかの上流階級の人々くらいで、庶民は、冠婚葬祭の時しかハイヤーを使わなかった。また、道路でタクシーを見かけることは殆どなく、馬車や馬ソリのほうを、よく見かけたものである。
馬ソリには、通学の際、時々乗せてもらった記憶がある。雪が融け、春になれば、馬糞が風に乗って舞い上がる。つまり「馬糞風」が吹き抜ける環境であったが、市民はそれが普通のことと感じていた。このように、何もない時代といっても別に不満があったわけではない。
むしろ、今の子供達よりも、満たされていたように思える。学校から帰れば、同世代の子供同士でパッチ(メンコ)やビー玉をして遊んだり、缶蹴りや、かくれんぼをしたものであった。
どこの家庭も子供が多く、いつも10人くらいの子供が、特に待ち合わせ時間や場所などを決めなくても、お寺の境内や広場などに集まっていた。
子供が10人も集まれば、自然に一つの軍団が組織され、当然、子供のボスが出現する。いわゆるガキ大将というやつである。私は年少者であったため、ガキ大将にはならなかった。いや、なれなかった。だからといって、いじめられたという記憶は全くない。
近所の子供らは、5尺8寸(約180cm)の身長と、当時としては背が高く、声が大きい私の父親が怖かったのかも知れない。
5歳くらいの頃だっただろうか。チャンバラをして遊んでいたとき、相手の刀が手に当たった。そのとき私が大声で泣いた。
すると、父親が家から飛び出してきて、ガキ軍団を蹴散らした。父親は、どこの子供が泣いているのかとよく見たら、我が子(私)だったのに驚き「一度殴られたら二度殴り返してこい」とハッパをかけられた。
子供達の間では、対立する組織も必然的にでき、電車通りを挟んでよく喧嘩をした。
電車通りの東側は桑園小学校の縄張りで、西側は日新小学校の縄張りであった。大勢で「ソウエン底抜け小学校」と罵声を浴びせたら「ニッシン憎まれ小学校」という罵声が帰ってきた。
当時の「桑園小学校」は、これ以上ボロっちくなりようがないくらい傷んでいた。なにせ、私の父親の小学生時代からの建造物であったから、ボロっちいのは当然である。
父親は非常に厳しい人で、毎日のように殴られたものだった。なぜ父親に殴られたのか分からないが、殴られるということは自分が悪いからだと思った。父親との間には、議論の余地は全くなく、善悪は、身体で覚え込まされたのである。
父親は、よく軍隊の話をしてくれた。父親の部隊が駐留していたのは、中国の北支というところだった。パーロ(八露軍)は非常に怖かったそうである。しかし、現地人のクーニャン(若い女性ら)とは仲良かったそうだ。
戦死した日本軍兵士の中には、突撃のドサクサに紛れて、味方に狙撃された上官が多かったそうである。味方に後ろから撃たれても、靖国神社には名誉の戦死(軍神)として祭られたという。
父親が口癖のように言っていたのは「軍隊は人間の行くところではない、もし息子たちが徴兵されるのなら代わりに俺が軍隊に行く。お前達には絶対、銃を持たすようなことはさせない」という言葉であった。
中国の最前線から引き揚げ、本土に着いたとき、米将兵は、戦友の遺骨を抱いている私の父親に対し最敬礼をしたという。
父親は、国鉄に鉄道公安官として復職した。
当時、国鉄は敗戦という悲惨な状況の中で、たくましく汽笛をあげて、国民の夢と希望を乗せ、そして国民の足として全国を走り抜けた。
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《昭和二十年代初期》 当時は、クルマもない、冷蔵庫や洗濯機もない、満足な衣服もない、あるのは、寝るところと、食べるところくらいである。このように、市民が皆、貧乏であれば貧富の差が無いのは当然である。
しかし寝るところもなく、食うこともできない人々もいた。そのような人々は、私の家のような、貧乏人の家からも、食べる物を貰いながら暮らしていた。当時、そういう人々のことを「乞食」
とか、「物もらい」と呼んでいた。
私が3歳くらいのころ乞食の母子が、うちに「食べる物を頂けませんか」と訪問して来た。
私の母親は、その2人に焼きおにぎりを握ってあげていた。良く見ると乞食の母子のほうが、私や私の母親よりも良い衣服を着ていた。子供は、私と同じ年頃の女の子であった。
その女の子は、いま元気にやっているのであろうか。ひょっとしたらバブル景気の頃に大儲けをして、資産家になっているかも知れない。
そのころ、札幌円山病院で幽霊騒動があった。
病院のトイレで幽霊を見たという患者が続出したのである。
病院側は、僧侶の読経で霊を鎮めてもらったようだ。その様子が、ラジオでも放送された。
いま考えれば馬鹿らしいことと思うが、当時はそういう時代であった。
そういえば、母親に「戦争はどうして起こるの」と聞いたことがある。母親から「人が増えるから戦争をするのよ」という答えが返ってきた。もう一つ「赤ちゃんはどこから産まれるの」と聞いたら「おヘソからよ」という返事だった。
3歳の私に対する解答としては仕方がなかったと思うが、市立高女(札幌市立高等女学校)を出たと威張るのなら、もっと適切な解答があったように思える。それは私が3歳、母親が21歳の時であった。母親の女学生当時は、男女共学ではなかったそうだ。
札幌市の旧制・男子校は、一中(現在の札幌南高校)、二中(現在の札幌西高校)、北中(現在の北海高校)と他に札商(現在の札幌商業)などの実業学校があった。女子校は、庁立高女(現在の札幌北高校)、市立高女(現在の札幌東高校)、
そして他に静修(現在の静修女子高校)などの裁縫学校があった。
北中(現在の北海高校)は、父親の出身校で、昔も野球では有名であった。父親は野球ではなく、サッカーの選手をやっていたようで全国大会にも出場した経験があると言って自慢していた。
父親は、高校野球が始まれば、必ず母校である北海高校の応援をしていた。いつ頃だったか、私が「北海高校など負けてしまえ!」といったら、おもいっきり殴られた記憶がある。いやぁ、目から火花が出て痛かったですね。
札幌駅前や三越前そして狸小路などを歩けば、戦闘帽に白装束の傷痍軍人のグループがアコーディオンを弾きながら寄付を集めていた。
聞くところによると、戦争で負傷した軍人よりも事故で負傷した者が、傷痍軍人の服装をして寄付を集めている場合もあったそうだ。
ところで、豊平川にかかる大きな橋として、豊平橋、一条橋、東橋があったが、東橋の下の河川敷に「サムライ部落」という名の集落があった。
そこには、戦争や災害で、住む家や家族を無くした人々が、バラックを建てて住み着いていた。
職業としては雑品屋が多かったようだ。
東橋の上から河川敷を見ると、ゴミの中に人々が住んでいるように見え、その中から元気な子供の声も聞こえた。母親から聞いた話だが、あのような環境の中で暮らしていても、当時、北大に入った子供や2千万円(昭和二十年代の貨幣価値)も貯め込んだ人もいたそうである。
昭和二十年代の昔は、なんといっても貧乏人の中の貧乏人といえば、公務員や鉄道員であった。
なにせ「公務員には嫁がこない」という時代であったから、どれだけ貧乏であったか察しがつくと思う。
父親は、中国の戦地から復員し、鉄道公安官として国鉄に勤めていたため、私は近所の子供らから「日本一の貧乏人」と呼ばれていたくらいである。誰も嫁にこないのを知りながら、父親になぜ国鉄に入ったのか知りたかったが、もうそのわけを聞くことはできない。
「親孝行したいときには親は無し」とよく言ったものであるが、親がいるときには「親孝行したくないとき親が居る」というのが現実と思うのである。私には一人娘がいるが、娘にもそう思われているのかも知れない。
十数年前は「安室」ルックが流行っていたそうだが、当時、私の娘も例外ではなく、長い髪を茶色に染めて厚底のブーツを履き、この寒いのに超ミニスカートで、出歩いていたのを思い出す。
私は「お前、格好だけは真似ができても八頭身だけは真似ができないぞ」と怒鳴ったら険悪になってしまった。そもそも、北海道のような豪雪寒冷地に住む人間は、どうしても、脚が短くなるのである。
その理由は、豪雪地帯のうえに氷の世界で育つため、膝から下は、安定性を保つため伸びないのである。そして膝から上は太くなる。北海道から、ミスユニバースやミスワールド候補が出ない原因はそこにある。
もし、脚が長くなるように成長したい、あるいはさせたいときは、雪や氷のない地方で暮らすことをおすすめする。ついでに述べると、北海道のような寒冷地に住む人間は、夏場、本州のような暖かいところに行くと、玉のような汗を流す。
そのわけは、寒冷地であるため、生まれたころから保温のため 多くの汗腺の穴が閉じてしまうそうである。一方、暖かいところに住む本州の人間の場合は、まんべんなく汗がでるため、玉のような 汗をかく人は少ない。
したがって、東京のような大都会に住んでいたとしても「脚の長さ」や 「汗のかき具合」から出身地の察しがつくのだ。
北海道の春は遅く夏は短い。豪雪だけは、今も昔も変わらない。
おそらく未来も変わらないだろう。
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《昭和二十年代後期》 私の小学校入学式の前日、父親に自分の名前を漢字で書けるよう特訓された。「栄」という漢字が、なかなか書けないため、何回も叱られた記憶がある。
父親は、私にとって生きた字引であり、そのため辞書など必要としなかった。
父は、私にいつも分からない文字や単語の意味を教えてくれた。最後に教えてもらった言葉は「森羅万象」の意味であった。
父親は、酸素吸入をしながら「世の中のありとあらゆる物」と答えて、その数日後に死んだ。
享年65歳であった。
父は戦時中、皇軍の兵士として中国軍と戦い、戦後は貧乏と戦い、国鉄退職後は腎臓病と戦い、そして一人の赤子 (せきし)が戦死した。戒名は禅寺から「善覚院徹山勝元居士」を授かった。
私が通った小学校は、畑に囲まれ、通学路の途中には、大きな肥溜めが数ヶ所あった。その肥溜めに石ころを投げて遊んだものであった。
大きい石ほど、そのしぶきが豪快であった。石をドボッツと投げ込むとワンステップをおいてからベチャとしぶきが上がるのである。
私は肥溜めのしぶきを上げながら、意気揚々として通学したものであった。
クラス編成は、男子と女子半々であった。小学校入学前の、私の周りの子供らは殆ど男子であったから、女子と遊ぶことは、殆ど無かった。そのため、私は、いいかっこしようと有頂天になった。
給食後の休み時間、ある女の子を押しつけて怪我をさせてしまった。担任の男性教師は、その子の家に謝りにいった。毎度そのような事が続いたせいかどうか、クラス担任として就任してから僅か半年で病気になり、とうとう入院してしまった。
その後、後任として若い女性教師がやってきた。この女性教師は非常に厳しい人であった。
ある日の昼休み、私は友達と「3つ並べ」というゲームをしていた。
この「3つ並べ」は、体育館の階段や地面に石筆でゲーム板を描き、相手に対面させて、石を3つ並べ、ジャンケンで勝った方から先に1コマずつ石を移動させ、先に相手方の石が置いてあったところに、自分の石を3つ並べたほうが勝ちというゲームである。
ゲームをするために必要な道具は、石筆、もしくはチョークのみであったため、お金をかけずにゲームをすることができた。
さて、「3つ並べ」のゲーム終了後、私の周りで、おっ駆けっこ「鬼ごっこ」をしているグループを発見した。
私はその、おっ駆けっこに入れてもらおうと思ったが、相手にしてもらえなかった。私は、面白くなかったので、思いっきり蹴っ飛ばした相手が女の子だったのが不運であった。
午後の授業が始まるとき、クラス担任の女性教師にビンタをはられたのである。
私には、少年時代から女難の相が出ていたのかも知れないが、自分が悪いのだから仕方がない。
学校帰り、非常に面白くなかったので、畑の肥溜めに特大の石を投げ込んだら、ベチャッと爽快にしぶきが上がったのを今でも忘れない。
その後、多くの友達もできて、誘い合って通学した。主な友人は、幼年時代に遊んだ近所のガキ軍団の連中であったが、そのガキ軍団に、かわいい女子友達も加わった。女子友達の中には、幽霊の話が好きな女の子もいた。
幽霊の話が好きだといっても、女の子自身が話す怪談、奇談のミステリーである。
私は、女の子が話してくれる怪談、奇談を毎日楽しみにしていたが、あまりの怖さで、夜中、トイレにも行けなくなることがあった。お盆の時、墓参りに行くと何となく不気味であった。
札幌円山公園の南側、裏参道の横に、坂下公園があり、その奥に円山墓地がある。円山墓地には、父方の祖父の墓があった。
私は毎年、両親に連れられてお参りにいった。
ゆかたを着て下駄を履き、ちょうちんを下げていくのが楽しみであった。
時々、ローソクの火がうつって、ちょうちんを燃やしてしまったこともあった。
円山墓地には、乞食の家族がたむろしており、私たちの墓参がいつ終わるかを、乞食の子供が、陰から探っているのが分かったが、私の両親は気にはしていなかった。おそらく、私たちが帰った後、供物を食べたのであろう。
飽食の時代、「ギャル」とか「コギャル」などと騒いでいた若者達には、札幌市中央区の小学校の通学路のそばに肥溜めがあったとか、円山墓地に乞食がたむろして供物を食べていたと話しても信用しないだろう。
昔から「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があったが、私の娘は「かわいくなくてもよいから旅させないで」と言う。嘆かわしいことと思うが、平和で豊かな証拠なのかも知れない。
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「賀陽宮(かやのみや)恒憲王が札幌に来られたときの奉唱」
各小学校から一人ずつ選ばれ、私の母は苗穂小学校から代表として選ばれた。
昭和13年5月16日 札幌グランドホテル |
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《昭和30年代前期》 私の名前は、将来、代議士にでも立候補したときに、有権者に分かり易いようにと、祖父が命名したという。いかにも昔流の考え方である。
父親は、復員後、九州の佐世保で占領軍の通訳を兼ねて旧軍部の残務整理をおこなった経験もあり、英語はペラペラであった。そうしたこともあり、私には、外交官か野球選手にでもなって欲しいという希望があったらしい。
しかし、野球選手に英会話が必要なのであろうか。いや、父親は将来、スポーツ国際化の時代が来ることを予見していたのかも知れない。
一方、私を少年少女合唱団に入団させることに失敗した母親は、今度は、絵を習わせることにしたのである。音楽にしても、絵画にしても、母親が得意とするところだったが、私を世に出すには、どうしても有名な師匠の指導と権威が必要であったようだ。
私は近所や学校では、やんちゃ坊主だが、家では良い子であった。たとえば、お客さんがみえたときは両手をついて挨拶することを躾けられ、それを忠実に実行した。このように、祖父や両親の前では礼儀正しい良い子であり、近所でも礼儀の正しさでは有名であった。
さぞかし両親は、鼻高々であったことだろう。しかし、私は、祖父や両親の期待をことごとく裏切り、代議士でもない野球選手でもない、別の方向に向かって全力で走り続けた。
「故郷は」と聞かれると、私は、「札幌市中央区北4条西20丁目」と答える。
私が生まれ育ったところには、たくさんの思い出があり、いま、クルマで近くを通ると、どこからか子供達の声が聞こえてくるような気がする。
当時、私が住んでいたところには、大きなマンションやビルが建ち並び、お寺が建っていた場所は、北海道日産の営業所になっている。
私が育った家の向かい、電車通りの東側にあった商店街には、僅かではあるが、昔の面影がある。
既に「学芸大学行き」の市電は廃止され、片側2車線の舗装道路になり、タクシーやマイカーなどで渋滞している。
札幌西高校があったところは札幌龍谷学園になっており、幼年時代に遊んだポプラの木や大きな鉄棒は見あたらない。
長い年月で街は変貌しても、そのとき見た空は変わらない。
手稲の山々が赤く染まるとき、いつも歌った「手稲の頂き白い雲 大きく育てと呼ぶところ」と日新小学校の校歌が響きわたる。
しかし、日新小学校の卒業生名簿に、転校していった私の名前はない。
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