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2002年05月06日
【回想録「1」】
‥…― プロローグ ―…‥
私が生まれた頃は、皆、貧乏であった。電化製品といえば照明器具や電気蓄音機とアイロンくらいで、テレビはもちろんの事、冷蔵庫や洗濯機もまだ一般家庭には普及していない時代であった。私の母親の実家があった黒松内村ではまだランプ生活であった。

ではなぜ家に電気蓄音機(デンチク)があったかというと、父親は洋画が好きで休みの日にはよく映画館に連れて行かれたものである。デンチクはその洋画の主題歌を聴くために必要だったようだ。私には童謡のレコードを買って聴かせてくれた。当然、SPレコードの時代である。

市民の足は国鉄と市電とバスで、クルマを持っている者は、どこかの上流階級の人々くらいで、庶民は冠婚葬祭の時しかハイヤーを使わなかった。また道路でタクシーを見かけることは殆どなく、馬車や馬ソリのほうをよく見かけたものである。

馬ソリは通学の際、時々乗せてもらった記憶がある。雪が融け、春になれば、馬糞が風に乗って舞い上がる。つまり馬糞風が吹き抜ける環境であったが市民はそれが普通のことと感じていた。



【悪ガキ軍団(左下が私)】

このように何もない時代といっても別に不満があったわけではない。むしろ、今の子供達よりも満たされていたように思える。学校から帰れば同世代の子供同士でパッチ(本州の言葉でメンコ)やビー玉をして遊んだり、缶蹴りや、かくれんぼをしたものであった。どこの家庭も子供が多く、いつも10人くらいの子供が特に待ち合わせ時間や場所などを決めなくても、お寺の境内や広場などに集まっていた。

子供が10人も集まれば自然に一つの軍団が組織され、当然子供のボスが出現する。いわゆるガキ大将というやつである。私は年少者であったためガキ大将にはならなかった。いや、なれなかった。だからといって、いじめられたという記憶は全くない。
近所の子供らは、5尺8寸(約178cm)の身長と当時としては背が高く、声が大きい私の父親が怖かったのかも知れない。5歳くらいの頃だっただろうか。チャンバラをして遊んでいたとき、相手の刀が手に当たった。そのとき私が大声で泣いた。すると父親が家から飛び出してきて、ガキ軍団を蹴散らした。父親は、どこの子供が泣いているのかとよく見たら我が子(私)だったのに驚き「一度殴られたら二度殴り返してこい」とハッパをかけられた。

子供達の間には、対立する組織も必然的にでき、電車通りを挟んでよく喧嘩をしたものであった。電車通りの東側は桑園小学校の縄張りで、西側は日新小学校の縄張りであった。大勢で「ソウエン底抜け小学校」と罵声を浴びせたら「ニッシン憎まれ小学校」という罵声が帰ってきた。当時の「桑園小学校」は、これ以上ボロっちくなりようがないくらい傷んでいた。なにせ私の父親が通学していた頃からの建造物であったからボロっちいのは当然である。

父親は非常に厳しい人で、毎日のように殴られたものだった。なぜ殴られたのか分からないが、殴られるということは自分が悪いからだと思った。父親との間には議論の余地は全くなく、善悪は身体で覚え込まされたのである。

父親はよく軍隊の話をしてくれた。父親の部隊が駐留していたのは中国の北支というところだった。パーロ軍(人民解放軍)は非常に怖かったそうである。しかし現地人のクーニャン(若い女性)とは仲良かったそうだ。戦死した日本軍の中には、突撃のドサクサに紛れて味方に狙撃された上官が多かったそうである。味方に後ろから撃たれても靖国神社には名誉の戦死(軍神)として葬られたという。

父親が口癖のように言っていたのは「軍隊は人間の行くところではない、もし息子たちが徴兵されるのなら代わりに俺が軍隊に行く。お前達には絶対、銃を持たすようなことはさせない」という言葉であった。
中国の最前線から引き揚げ、佐世保に着いたとき、米将兵は戦友の遺骨を抱いている私の父親に対し最敬礼をしたという。
父親は、国鉄に鉄道公安官として復職した。当時、国鉄は敗戦という悲惨な状況の中で、たくましく汽笛をあげて国民の夢と希望を乗せ、そして唯一の足として全国を走り抜けた。
 つづく 

最終更新日 2022/12/18 access counter
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元北海道大学大学院工学研究科・工学部 文部科学技官 石川 栄一
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