私の名前は、将来、代議士にでも立候補したときに、有権者に分かり易いようにと祖父が命名したという。いかにも昔流の考え方である。
父親は母との結婚前、九州の佐世保で占領軍の通訳を兼ねて旧軍部の残務整理をおこなった経験もあり英語はペラペラであった。そうしたこともあり私には外交官か野球選手にでもなって欲しいという願いがあったらしい。しかし野球選手に英会話が必要なのであろうか。いや、父親は将来、スポーツ国際化の時代が来ることを予見していたのかも知れない。
一方、私を少年少女合唱団に入団させることに失敗した母親は、今度は絵を習わせることにしたのである。音楽にしても絵画にしても母親が得意とするところだったが、私を世に出すにはどうしても有名な師匠の指導と権威が必要であったようだ。 |