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最終更新 2024/2/29
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キツネの嫁取り
 現在、世界中で、侵略だ、領土奪還だ、などと騒いでおりますが、宇宙から見れば、人間などゴミやチリみたいなものです。いやそれよりも小さい細菌やウイルスのようなものでしょう。そもそも地球は人間だけのものではありません。
 地球上に生きる動植物全てに生存権があるのです。たまたま人間という動物が、ほかの動物の生存や存在をコントロールしているに過ぎないのです。

 100万年後も人類主導の地球が存在するとは限りません。いつ勃発するか分からない核戦争の恐怖。現在のロシア対ウクライナ戦争にNATO(北大西洋条約機構)の加盟国が一国でも参戦したら世界戦争に発展するでしょう。

 そのような事態になると、ロシアと盟友関係にある中国や北朝鮮も参戦し、ウクライナに荷担している日本もミサイル攻撃のターゲットになるのは確実です。
 日本を潰すには核爆弾や地上軍はまったく必要ありません。54発のミサイルを日本の原発にぶち込めば良いのです。いや世界一危険な原発と呼ばれている浜岡原発をミサイル攻撃するだけで首都圏は放射能汚染され日本は終わります。

 それでも愚かな為政者は、日本の原発はミサイル攻撃をされても安全ですとでもいうのでしょうか。そのような事態にならないよう、他国の戦争には関わらないようにしましょう。そもそもロシアとウクライナは同じ民族同士の争いです。他国が干渉するのは、国連の民族自決の精神とはかけ離れています。

春香山山頂より 石狩湾(左上)と銀嶺荘(右下)

 さて、私が北大に在職していた頃は、毎春、春香山(札幌から約20Km)に、登山を兼ねて山菜取りに出かけていたのですが、その都度、キタキツネの子供が山小屋(春香山 銀嶺荘)のそばに現れました。
 親ギツネの姿がないので、おそらく巣立ちしたばかりなので、餌の捕り方が分からないのかも知れません。

春香山 銀嶺荘(出典)しゅん

 当初は、小ギツネ一匹だったのですが、やがて、その小ギツネが大人になり、三年後には嫁さんを連れて参りました。つまり、つがいで現れ、餌をねだっていたのです。
 そして、翌年、そのつがいのキタキツネが、小ギツネを三匹も連れてきたのです。なんと微笑ましいと言おうか、動物の世界も人間の世界と同様なんだなと、つくづく感じました。

キタキツネ 親子(写真はイメージです)

 札幌市内でも、キタキツネを何回も見ていますが、実際のキツネは、いつも餌を漁っていて、厳しい現実の中で頑張って生きています。
 キツネダンスを楽しそうに踊っているのは、ファイターズガールだけです。

 キタキツネの世界にも貧富の差があるらしく、札幌市内を徘徊しているキツネはゴミステーションの残飯などを漁っているせいか、ふくよかですが、地方の駐車場などで見かけるキツネは、どういうわけか痩せこけています。

痩せこけたキタキツネ(ニセコ五色温泉付近の駐車場)

 ヒグマやエゾシカ、キタキツネが、周辺の山から住宅地まで下りてくると言うことは、餌が少なくなっている証拠と思われますが、元々は彼らの縄張りであり領地だったのです。 地球は人間だけのものではないのです。
おわり
 2024/2/29 石川栄一
目次
春香山の位置

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最後に生き残る者

江戸時代(出典)GOOD LUCK TRIP
江戸幕府の徹底した支配・管理による平和で庶民文化が栄えた時代

上図は日本の人口の移り変わりをグラフにしたものです。

 明治時代の人口推計によると、1873年(明治6年)の日本の人口は3340万人だったそうです。またグラフでは江戸時代初期から末期にかけての250年間に、人口は約3倍、2000万人も増加しています。江戸時代にも子育て支援があったのでしょうか。おそらく平和であるから人口も増えたのでしょう。

 明治維新からおよそ100年後の1967年(昭和42年)には、日本の人口はついに1億人をこえました。日本の人口は100年間で約3倍になったのです。ところがその後、徐々に少子高齢化が進行し、100年後の2120年代には日本の総人口が5000万人を割り込み、高齢化率は更に上昇するといわれています。

 この状況を打開するために自民党政府による「子育て支援」を推し進めたとしても焼け石に水でしょう。また「子育て支援金」を決めた段階からウソで始まっています
 岸田総理は「子育て支援金の負担額は1人500円」と述べていましたが、加藤鮎子政策相が「1人あたりの負担額が月1000円を超える可能性がある。所得や保険制度の種類に応じて変わってくる」「500円弱は平均だ」と答弁したのです。そもそも子ども対策に医療保険を充てること自体がおかしい。

 少子高齢化は子育て支援で解決できるわけがありません。それは子育て以前の問題だからです。サラリーマンが今の収入では結婚もできないのも大きな問題です。以前にも述べましたが、まず全ての労働者階級の組織化で、経営者と対等に交渉できる力を備えなければなりません。「全国の労働者団結せよ」です。

 このままでは、ブルジョア=資産家階級、およびその腰巾着や太鼓持ちの支援を受けた自民党やマスコミによる日本支配の失敗で、日本全体が転覆してしまうでしょう。彼らが主張する民主主義とは、自分達の利益・利権が守られるのに都合の良い体制を維持することなのです
 彼らは言うでしょう。体制が変われば「地獄を見る」と。
 私は言うでしょう。「資産家階級およびその腰巾着や太鼓持ちは地獄を見れ」と。
 かつて、資産家階級らが始めた戦争で、日本は焼け野原になりました。そして戦後、当時の札幌は奇跡的に空襲はありませんでしたが食糧難。しかも満足な衣服もない、あるのは、寝るところと、食べるところくらいでした。

 しかし寝るところもなく、食うこともできない人々もいました。そのような人々は、私の家のような貧乏人の家からも、食べる物を貰いながら暮らしていました。当時、そういう人々のことを「乞食」 と呼んでいました。

 昭和20年代、私が2歳くらいのころのある日の夕方、乞食の母子が、うちに「食べる物を頂けませんか」と訪問して来ました。私の母親は、その2人に「焼きおにぎり」を握ってあげていました
 しかし貧乏な人たちが多く、生活保護も子育て支援もない社会でしたが、どこの家庭も子供が多かったので、将来への夢や希望がありました。

大地震や火山の噴火で爆発を繰り返しながら沈没して行く日本列島(東宝)

東宝映画『日本沈没』1973年12月29日公開 144分

 小松左京の同名ベストセラーを映画化し社会現象を巻き起こした特撮パニック大作。潜水艇に乗って調査に向かった田所博士は、海底に重大な異変が起きているのを発見し、近いうちに日本が海底に沈むという恐るべき予測にたどり着く。やがて日本各地で大地震や火山の噴火が起こりはじめ……。

「キャスト」小林桂樹 藤岡弘 いしだあゆみ 丹波哲郎
「監督」 森谷司郎 「原作」 小松左京 「脚本」 橋本忍 「音楽」佐藤勝

  人類の終末が予言された1999年の7の月」は、何事もなく終わりましたが、ノストラダムスの大予言で触れられていないのが日本の大飢饉です。
 我が国の食料自給率は、40%(農水省公表)で、これは端的に申しますと、昔、氷山に衝突して沈没した豪華客船タイタニックの救命ボート(定員の半数分以下しか用意されていなかった)と同じようなものです。

 つまり、食料危機になると、半数以上の日本人が餓死などで死んでしまうと言うことです。北朝鮮の食糧危機が他人事とは思えません。日本では飢饉でなくても米騒動や野菜の極端な値上がりが良い例でしょう。もし大飢饉にでもなれば、食料はもとより、物価が極端に跳ね上がり、私達一般庶民の生活を圧迫します。

 従って国民は、現在の農政に関心を持ち、早急に改善しなくてはならないと考えます。それでも国民の農業離れが進むと思いますので、国民皆農民運動を展開する必要があるでしょう。
 最後に笑う者は、食料を握っている者であると思います。
 人間が生きるか死ぬかという食糧難の際には、お金は紙屑同然です。
おわり
 2024/2/23 石川栄一
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馬鹿が戦車でやって来る

映画『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』は、1964年に松竹が制作・公開した山田洋次監督・ハナ肇主演の映画で、村一番の貧乏人サブと強突く張りな旧地主と腹黒い村会議員、サブに同情する村娘、それに渦巻く社会格差と偏見と差別の物語です。


あらすじ

 海釣りに来た中年の男(松村達雄)と若い男(谷啓)は、船頭(東野英治郎)から海辺にある“タンク根”の由来を聞かされる。
 その昔、変人ばかり住んでいたと言われる日永村「ひながむら(架空の村)」のはずれに村中から“汚れの一家”と呼ばれ、除け者にされていた貧しい家族が居た。
 家族は少年戦車兵あがりで農器具の修理をしているサブ(ハナ肇)、サブの弟で知的障碍者の兵六(犬塚弘)、そして耳が不自由な母親のとみ(飯田蝶子)の三人暮らしで、村には他に強突く張りな旧地主で長者の仁右衛門(花沢徳衛)をはじめ、腹黒い村会議員の市之進(菅井一郎)、色欲狂いの赤八(田武謙三)とたね(小桜京子)夫妻、それに最近、村に赴任した警官の百田(穂積隆信)等が暮らしており、特に仁右衛門とサブは犬猿の仲だった。
 それと言うのも戦後、農地解放により小作人のサブに分け与える羽目になった農地を仁右衛門が取返そうとしているからだ。だが仁右衛門の娘、紀子(岩下志麻)だけはサブ一家の味方だった。
 紀子は長い間病床にあったが、秋祭りが近づく頃には若い医者新吾(高橋幸治)の看病で起きあがれるまでに回復していた。

 やがて秋祭り。紀子は二年ぶりに村を歩いた。そんな紀子の姿を誰よりも喜んだのはサブであった。
 紀子に誘われて全快祝いに駆けつけたサブだったが、仁右衛門は冷たくサブを追い出した。
 腹の虫がおさまらないサブは、村中を暴れ回り警察の御用となる。その弱みにつけこんだ腹黒い村会議員の市之進は親切めかしに、サブの母親のとみに金を貸しつけ、盲判(めくらばん)でサブの土地を抵当として巻き上げる。
 数日後、サブの家から突然、旧陸軍の戦車が飛び出して村中を暴れ回るが、その時サブの弟、兵六が火の見櫓で鳥の真似をして誤って転落死してしまった。
 戦車に乗っていたサブは兵六の死体を戦車に乗せると、何処へともなく去っていったというのだ。
 船頭の話はここで終った。
 この映画は、いまから60年前の1964年に制作されたものですが、社会情勢などは、現代社会を圧縮したような物語になっています。
 私はまだDVDが一般に普及する前の1980年代にレーザーディスク版の映画『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』を買って楽しんでおります。

 戦車はともかく、高齢者や障害者問題、社会格差と偏見と差別。そして詐欺被害問題などは現在とそれほど変わりません。
 しかし、あの岩下志麻さんの清純ぶりには驚かされます。
 誰が見ても楽しめる映画かと思います。

映画「馬鹿が戦車で やってくる(予告編)」

国家と個人

 私は憂国と聞きますと国家主義を連想します。つまり、国家主義とは、個人を犠牲にしても国家を至上とする主義で、戦前・戦中の軍国主義者が、この思想を国民に押しつけて悲惨な戦争を始めました。
 現在においても、軍国主義者の一部は、あの「崇高な戦争」は「個を超えた公のために」生きることで可能だったと主張します。

 そして、この「」が「国家」にほかならないことを語っています。
 しかしそれは、国民を支配し押しつぶす「国家」であり、国益のために隣国に強制的に自分達の言うことをきかそうとする「国家」です。
 日本・軍国主義による侵略戦争と、沖縄の地上戦の実態は、まさに「国家」は決して国民を守らないことを証明したのです。

 公とは、個人が、それぞれの基本的人権を認め合い、お互いにつくりあげていくものでなければなりません。過去の歴史をしっかり認識し、自分たちの未来は、自分たちで切り開くという立場が大切なのです。

 「個」を押しつぶす「公」と命がけで戦い、日本とアジアの平和、目に見えない他者のために戦った人達こそ、公と個とのあるべき関係を体現した人々だと思います。かつての軍国主義による侵略戦争に対するしっかりとした認識こそ、全人類の明日のために不可欠な条件であると思います。
 「公=国家」よりも「個=国民」の、一人一人を大切にしてこそ、輝かしい未来が切り開かれるものと確信しております。


<日本国憲法 第十三条>
【条文】すべて国民は個人として尊重される。
 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。

人権の基本原理
おわり
 2024/2/14 石川栄一
目次
タダ見 裏口入館と紙芝居
東宝公楽劇場(札幌市中央区南5条西3丁目6-1)ススキノ界隈

 私が子供の頃の正月(昭和20年代~30年代)には、毎年、お正月映画として封切られた東宝映画を見にいきました。しかもタダで。
 主に、札幌劇場(札劇 父の後輩が経営)、帝国座や東宝公楽(父の知人が経営)など。特に東宝公楽は、東宝映画の封切館で、ゴジラやラドン、モスラなどの怪獣映画を見るのが楽しみで弟と二人で行きました。私たちは、タダで入館するので「裏口入館」でしたが、小学生だった当時はそれの善悪はよく分かりません。
 よく問題になる「裏口入学」とは、正規の試験や手続きを経ず、賄賂や縁故などを用いて不当に入学することですが、一方何故、私が「裏口入館」というかは、一般のお客さんが入る映画館の正面入り口ではなく、映画館の裏にあった事務所の入り口から入館したからです。

 このように書くと、映画館に「縁故」などを用いて不当に入館したので、まずいように思いますが、映画館の支配人の承諾を得て入館したので問題はないようにも思えます。
 しかし、一般の人が高い入館料を払っているのに、事務室からタダで入館したら不公平のようにも思えます。
 はたして、映画館に支配人との「縁故」などを用いて不当に入館したことが違法か合法かと問われても、それは今でも良く分かりません。

紙芝居の上演風景

 映画のタダ見といえば、子供の頃の紙芝居を思い出します。
 今はテレビという文明の利器があるためか、紙芝居は廃れてしまいましたが、昭和20年代、紙芝居は子供の私たちにとっては楽しみの一つでした。

 弁士のおじさんは、紙芝居をしながら飴を売って、その売り上げを生活の糧にしていたようでした。クルクルと巻いた形の飴で、正式名称は忘れたましたが、1個5円であったと思います。
 しかし、私の家は貧乏でしたので、その5円の小遣いがもらえず、仕方なく、手ぶらで紙芝居を見ようとすると、弁士のおじさんから「タダ見は後ろだよ」と注意されました。私や弟、妹はいつも後ろだでした。

 そもそも5円というお金は当時、一日分の小遣いで、親からはなかなかもらえませんでした。
 やがて、自転車の荷台に積まれた小さな芝居小屋は、子供の夢を運んでやってきて、そして、私たちの成長とともに、いつの日か消えていきました。
おわり
 2024/2/6 石川栄一
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過激派の末路

<独裁者 アドルフ・ヒトラー語録より>
宣伝の範囲は広く戦う組織は堅固であること。過激派は支持者がいないので、運動量を増やし目立つ様にしなければ、存在さえ大衆に忘れ去られてしまう。支持者がいないから異常な行動に走るのである。
 

   1970年代に起きた連続企業爆破事件の1つに関わったとして指名手配された「東アジア反日武装戦線」のメンバー、桐島聡容疑者(70)と名乗る人物が、29日朝、入院先の神奈川県内の病院で死亡したことが捜査関係者への取材でわかりました。(NHK 2024年1月29日 20時02分)

 過激派の当初の目的は「授業料値上げ反対」や「教授を頂点とする講座単位の封建的牙城を改める」といったものでしたが、それがエスカレートして行き「帝大解体」などに変貌し、大学紛争そのものが目的化していったのです。
 過激派の運動は、大学封鎖、拉致、暴行というような民主主義の原則から離れた戦術が主力になっていきました。

 マスコミは「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛むとニュースになる」が如く、過激派による暴力や機動隊との衝突を喜んで報道し、世論を煽ったことで、大学紛争は東大から全国に飛び火し、北海道大学でも大学封鎖などの暴力の嵐が吹き荒れました。そしてこれが大学紛争の総てのような報道になり、紛争そのものを報道することが目的化して行ったのです。
 その結果、大学の民主的改革に大きな障害になったのです。

 更に過激派の一部は「連合赤軍」や「東アジア反日武装戦線」のように激化し爆弾闘争や銃撃事件を引き起こすまでに至ったわけです。
 このように、過激派が爆破事件を起こすまでにエスカレートさせたのは、当時のマスコミが学生運動における過激派の活動を面白おかしく取り上げたことにも原因があるのです。


<主な全共闘過激派出身者>

猪瀬直樹 : 元 信州大学全共闘議長(元 東京都知事)
塩崎恭久 : 元 新宿高校全共闘活動家(第一次安倍内閣内閣官房長官)
仙谷由人 : 元 東京大学全共闘活動家(民主党[当時] 菅内閣官房長官)
上野千鶴子: 元 京都大学全共闘活動家 
坂本龍一 : 元 新宿高校全共闘活動家 同学年の塩崎恭久らと共に活動
立松和平 : 元 早稲田大学全共闘(ブント、中核派、社青同解放派)活動家
テリー伊藤 : 元 日本大学全共闘活動家(元 石原東京都政ブレーン)
橋爪大三郎 : 元 東京大学全共闘(ブント、中核派、社青同解放派)活動家
山内昌之 : 北海道大学在学時、社学同(社会主義学生同盟)活動家
田崎史郎 : 社学同(社会主義学生同盟)活動家として活躍


 田崎史郎氏には逮捕歴があります。
 福井県坂井郡三国町(現・坂井市)生まれ。福井県立藤島高等学校を卒業後、中央大学法学部法律学科へ入学する。入学当初は法律家を目指していた。大学2年時に三里塚闘争へ参加、凶器準備集合罪で逮捕のうえ13日間留置される。
Wikipedia
 現在、その変節ぶりは見事です。お金に転ぶ人物なのでしょう。
 この田崎史郎氏を含め、ほかの過激派の方々も、学生や教職員、そして多くの国民に対して、暴力、大学封鎖、破壊活動など様々な迷惑行動を取ってきました。その後、はたして彼らほか元過激派の方々は、幸せで充実した余生を送れたのでしょうか。
おわり
 2024/1/29 石川栄一
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自民党の犯罪を見逃す検察
Turbo on X(参考資料)

 政治は国民を映す鏡/サミュエル・スマイルズ「自助論」

 一国の政治というものは、国民を映し出す鏡にすぎません。
 政治が国民のレベルより進みすぎている場合には、必ずや国民のレベルまでひきずり下ろされます。
 反対に、政治のほうが国民より遅れているなら、政治のレベルは徐々に上がっていくでしょう。
 国がどんな法律や政治をもっているか、そこに国民の質が如実に反映されているさまは、見ていて面白いほどです。
 これは水が低きにつくような、ごく自然のなりゆきなのです。
 りっぱな国民には、りっぱな政治、無知で腐敗した国民には、腐りはてた政治しかありえないのです。
サミュエル・スマイルズ「自助論」

 結論から言えば「りっぱな国民には、りっぱな政治」「無知で腐敗した国民には、腐りはてた政治」しかありえないのです。
 さて、日本国民はどうでしょう。
 しかし、腐敗した自民党の長期政権を支えているのは、マスコミによる「世論操作」と「国民総愚民化報道」です。
 マスコミは現在も大本営発表を凌ぐデタラメを連日のように報道し、国民を愚民化しています。選挙があれば争点をぼかし、棄権を増加させています。
 そして、いつものように自民党政権を守るためにマスコミは、北朝鮮のミサイル発射や中国やロシアの政情不安を待っているのです。
 そして、多くの国民は、歴代自民党政権による御用マスコミを利用した「国民総白痴化政策」により、怒る気力も無くなっているように思います。
 
 さらに検察は「政治資金裏金疑惑」などに対する安倍派幹部の立件見送りとトカゲのしっぽ切りの黙認。
 自民党の西村康稔前経済産業大臣はお詫び行脚のため地元の兵庫・明石駅前でビラを配り、市民に【政治資金裏金疑惑】「裏金は一切ありません」「還付や不記載を指示したり、了承したことはありません」などと言い訳をしたようですが、それでは「還流金は何に使ったのか」の説明は一切ありません。
 収支決算も使い道も示さなくても良いのなら税務署は必要ありません。これで地元の市民が納得するから、いつまで経っても政治は良くならないのです。

 しかも、裏金事件を受けて設置された「政治刷新本部」のメンバーである、税金を使ってフランス旅行の「エッフェル姉さん」こと松川るい議員自身が204万円もの裏金を作って脱税していたのですからもう終わっています。

 インボイス制度が導入され、消費税の取り溢れも許されない中で、政治家だけが数千万円の裏金へのお咎めなしとは、あまりにも不条理だいう意見も多いのです。また、安倍派ではキックバックとは別に、議員が手元管理していた「中抜き」が下村や丸川など十数人もの議員で行われていたことが発覚たといいます。総額は少なくとも8,000万円と言われていますが、これでも検察は立件しないでしょう。

自民党政治家の犯罪を見逃す日本の検察

 検察が、巨悪を眠らせるのは今始まったことではありません。
 1986年日本の代表的な軍事産業であり、原子力発電所のメーカーである三菱重工が1,000億円もの巨額の「CB=転換社債」を発行しました。
 CB:株式に転換する権利(転換権)を持つ社債のことであり、あらかじめ決められた価格で一定期間内に株式に転換する権利を持った債券。

 この莫大な金額のCBは、バブル景気に乗り完売しますが、CBは株価と連動して価格が上昇。この1,000億円CBは発売されて二週間で額面100円が206円に上昇し2倍の価格になりました。
 三菱重工は自衛隊、防衛庁(現、防衛省)への戦車などの兵器販売、原子力発電の推進で自社に「優遇措置」を取ってくれた自民党政治家たちにこのCBを100億円分販売していたのです。「優遇措置」とは他の企業の兵器を購入せず、三菱重工の兵器を購入し、また値引きを要求せず、三菱側の「言い値」で防衛省が兵器を購入したことを指します。

 自民党は三菱重工の系列である三菱銀行から100億円借り入れ、CBを購入し、二週間後に206億円で市場で売却し106億円もの利益を得たのです。
 これは事実上の賄賂(ワイロ)であり、こうした不正な資金が自民党の活動資金となってきたのです。この106億円のうち最も多額なワイロを受け取っていた政治家が、日本に初めて原子力発電を導入した中曽根康弘氏でした。

 東京地検はこの賄賂問題を摘発しようと捜査に乗り出しましたが、その捜査を警察組織の最高権力者である最高検察庁の公判部長の河上和雄氏が「捜査の停止命令」を出し、自民党政治家たちの賄賂受け取りを見逃したのです。
自民党の各派閥のリーダー全員がこの賄賂を受け取っており、事件として立件すると自民党の政治家の大御所全員を逮捕することになり、自民党が潰れる」というのがその理由でした。

 東京地検の捜査員たちは、河上和雄氏から「お前達は自民党をつぶし、社会党や共産党に日本の政治を渡す気か?日本を赤の国にする気か?」と怒鳴りつけられ、捜査は打ち切られました。

 検察官は公務員であり警察と同様、赤でもなく白でもない、どの政党色にも属さない無色透明だと思うのですが、やはり自民党とそれを支持する大企業や富裕層などの一部の特権階級(上級国民)の味方なんですね。
 そもそも、どの政党を政権与党にするかは国民が選挙で決めることであり、たかが検察の幹部でしかない検事総長や公判部長ごときに、国の政治の方向を決定する権利も資格もないのです。


政治は国民を映す鏡
 りっぱな国民には、りっぱな政治
 無知で腐敗した国民には、腐りはてた政治

 しかし、マスコミに操られている今の日本人には、この意味が分からないのかも知れません。
 昔、「宗教は麻薬である」という言葉がありましたが、今は「テレビは麻薬である」になってしまったように思えます。
おわり
 2024/1/25 石川栄一
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白タク 緑タク ライドシェア
 私は、しばらくタクシーを使用していません。
 日常的な買い物などにはマイカーを使いますし、飲み会の帰りでもタクシーを使うことはまずありません。その理由は第一に運賃が高いからです。距離にもよりますが、バス賃の10倍も払ってまで目的地まで行く必要はありません。

 バス停で、終バスが行ってしまったら仕方がありませんが、それ以外ならバスを待ちます。待ち時間30分以内なら問題ありません。
 バスの待ち時間が30分以上とか、体調が悪い、天気が悪い、あるいは大きな荷物があるときには、仕方がないのでタクシーを使うこともあります。

トヨタ JPN TAXI(ジャパンタクシー)

 しかし、最近のタクシーのスタイルは気にくわないですね。
 何ですかこれ(写真)不格好の代表選手のようなクルマです。遠くから見たら霊柩車にも見えます。これじゃ私が普段使っているマイカー(日産シルフィー)の方がまだマシです。せっかく高い運賃を払って乗るのですから、もっと格好の良いスタイルにできないものでしょうか。

 さて、昭和30年代、マイカーの所有者は少なかったと申しましても、札幌の一部のお金持ちは自家用車を所有しておりました。
 マイカーが普及する直前に白タクが流行りました。白タクというのは無許可のタクシーで、かなり安い料金で利用できたのですが、取り締まりが厳しくなり、数年で廃れてしまいました。

 当時、小学生だった私は、白タクでも正規のタクシーでも安ければ良いと思っていましたから、なぜ取り締まるのか分かりませんでした。何れにしましても、タクシー料金は当然、親が払っておりましたので、子供の私にはどうでも良かったことです。
 最初に白タクを利用したのは、確か、札幌円山動物園に見学に行った帰りでした。白タクの車種は「ダットサン」。白タクの車内で父が運転手に「儲かりますか」と聞いたら、運転手は「大変なんですよ」と答えたのが、60年以上経った今でも記憶に残っています。
 白タク運転手の「大変なんですよ」の意味ですが、経済的に厳しいのか、取り締まりが厳しのか今も分かりません。


ダットサン A110型 セダン(1955年)

 次に、白タクを利用したのが、叔父たちと小樽に行ったときです。
 昭和30年代、札幌から小樽駅前までの白タク料金の相場は2000円(現在の貨幣価値と比較すると20,000円位)でした。現在、正規のタクシーを利用した場合でも、札幌から小樽駅前までのタクシー料金は12,000円~13,000円くらいですから、60年前の白タク料金は、それほど割安ではなかったですね。

 それよりも思い出に残ることは、白タクが小樽駅前に着いたとき、正規のタクシーの場合は、ドアボーイ(小樽駅の駅員らしい)がドアを開いてくれるのですが、白タクと分かると、駅員はドアーを開くことを避けていましたね。

 私は子供ながら、やはり白タクはまずいのではないかと思いました。
 白タクが廃れてから、やがて高度成長期に突入し、マイカーもどんどん一般庶民に普及して行くわけですが、当時、周囲の子供たちから「日本一の貧乏人」と言われていた我が家には、マイカーなど全く縁がありませんでした。


ライドシェア

 最近、タクシー業界の人手不足対策として注目されているのがライドシェアですが、人手不足の原因は賃金が低いのが第一の原因です。その賃金を上げるには「空車率を下げ、実車率(客を乗せているタクシー)を上げ」なければなりませんが、客商売ですからそう簡単にはいかないでしょう。

 札幌市内を走っているタクシーには空車が目立ち、地下鉄やJR駅前あるいはホテルや病院前を見れば、客待ちタクシーが圧倒的に多いように見えてしまいます。これでもタクシー不足と言えるのかどうか私には疑問です。

 しかし、人口が多い首都圏では客のタクシー待ちが多く、一方、過疎地ではタクシーは圧倒的に少ないか、タクシー会社が存在しないのが現状です。
 結果的に、首都圏や過疎地はタクシー不足といえますが、それ以外の市町村では空車が多いとも言えます。従って、ライドシェアを実施する場合は、首都圏と過疎地のみにすべきと思います。


タクシー業界関係者が作成した図ですが、
この図を見る限り当然ライドシェアは不安

 タクシー強盗やタクシー運転手に対する暴力事件はよく耳にしますが、それとは逆に、客を乗せて目的地以外をあちらこちらと走り回り、法外な運賃を請求したり、暴行や強姦など強制的に婦女を犯したりする(※)雲助のような、たちの悪い「暴力タクシー」というのは、映画の中だけの話なんでしょうか。

 もし、ライドシェアを実施する場合、運転手の「性善説は通じない」と思われます。また、タクシー事故による被害を受けても、ライドシェアの運転手が任意保険に加入していなければ十分な保障はされませんし、保障能力が無ければそれまでです。
 一方、タクシー会社も任意保険には未加入ですが「タクシー共済」に加入しています。さらにタクシー会社には事故処理に慣れている強力な「処理係」があり、タクシー乗車中の人身事故による保障については問題ないでしょう。

 ライドシェアの実施が決まると「反社会勢力」の参入、「ライドシェア詐欺」、さらにライドシェアに名を借りた「白タクの横行」も予想されます。
 いずれにしましても、札幌のような「実車率の低い市町村では、人手不足対策のためのライドシェアは効果がない」でしょう。
 それは空車が多く、タクシーが余っていると思うからです。
おわり
 2024/1/17 石川栄一
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<※雲助(くもすけ)>
 江戸時代,街道筋にいて交通労働などに従事した住所不定の人足。
 助郷制の矛盾が最大の要因となって発生したもので,行方さだめぬ浮雲のような存在であったため雲助の呼称が生じたと思われるが,その離合集散がクモの子を散らすごとくであるための称とする説もある。
<精選版 日本国語大辞典(コトバンク)>
警官の注意で屋根から落下
 世の中では日常的に、まさかと言うことが起こるものです。
 元旦から、大地震や航空機事故で日本はたいへんな事になっています。
 大地震は自然災害ですが「地震予知」という言葉は聞かれなくなりました。現在の科学をもってしても、地震の予知など不可能だからでしょう。しかし、昔から地震を予知すると言われてきた「ナマズ」はどうなんでしょうか。

 ナマズは、地震の微弱な揺れをいち早くキャッチして異常な行動をとったという言い伝えはたくさん残されていると聞きます。地震のときに「ある種の電磁波が出るという説」があり、ナマズはそれを感じとって行動するといいますが定かではありません。またミミズのような土の中にいる生き物や蛇や昆虫など地面をはっている生き物も地震を予知すると言われていますが、いずれも科学的根拠はありません。

夜の「大阪伊丹空港」の例
滑走路上に障害物があれば見えそうですが。

 次に、羽田空港で起きた日航機と海上保安庁機の衝突事故。航空機の衝突事故はどうにもならなかったんでしょうか。
 日航機の機長は、滑走路上に別の航空機などの障害物があったら、着陸をやり直せなかったのでしょうか。夜の滑走路は障害物が見えにくいのなら、超音波やレーダーで探知するとか、または障害物が見えるように滑走路を明るく照らすなど色々な方法があると思います。あるいは、離陸用滑走路着陸用滑走路を完全分離して、滑走路を二車線(二機線)にするなど。

 管制官から着陸許可があったとしても、やはり最後は着陸する航空機の機長の責任ですから、慎重な判断が要求されると思います。
 この度の大地震や航空機事故の犠牲者の方々に心から哀悼の意を表します。

スノーダクトの家の例(イメージ)

さて、まさかという雪下ろしの話です。
 北海道では、三角屋根とスノーダクトの家があります。スノーダクトはなだらかな逆三角のような形の屋根(写真参照)ですが、外見は、平らな陸屋根のように見えます。
 屋根のほぼ中央にダクトと排水の穴があり、雪が融けて下水に流れるように配管されています。スノーダクト方式は、雪下ろしの必要がないため、隣接する家に雪害で迷惑をかけることが少ないのが大きな特長です。
 また、総二階にすることが容易で、三角屋根と比べて部屋数を多くとれることや、敷地の有効利用ができることも大きな特長です。

事故時の屋根の雪下ろしイメージ

 事故は三角屋根の家で起きました。
 家主から屋根の雪下ろしを依託された業者は、家の前に排雪用のトラックを駐車して、早速作業にとりかかりました。一人が屋根に上り雪下ろし作業に取りかかり、もう一人は下から作業の様子を見張っておりました。

 そこにパトカーがやってきて、警察官が見張りの作業員に「ここは駐車禁止ですので移動してください」と指示したので、見張りの作業員は慌ててトラックを移動したところ、屋根の上で雪下ろし作業をしていた作業員が、トラックに引っ張られるように地上に転落してしまいました。

 どういうわけか、雪下ろしの作業員の「命綱」をトラックの荷台に引っかけていたのです。おそらく、写真のように手前の屋根側では「命綱」にならないので、向こう側の屋根の雪下ろしをしていたのでしょう。そして、トラックが急に移動したため、それに引っ張られて反対側の屋根から屋根の天辺を通り越して、手前の屋根まで引きづられ、地上に落下したものと思われます。
 地上に落下した作業員の生死は不明です。
 面白くても、決して笑えない話でした。

※ 屋根の雪下ろし料金の相場は、屋根の勾配と高さにもよりますが、1時間当たり5,000~10,000円とのこと。
おわり
 2024/1/8 石川栄一
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旗を奪われたドジな過激派

【去る者は追わず来る者は拒まず】

 この名言、一般的には「来るもの拒まず去るもの追わず」ですが、もともとは「去る者は追わず来る者は拒まず」といいます。その意味は「離れていく相手を引き止めたりはせず、やって来る相手は誰であれ受け入れる」という意味で一番好きな言葉です。
 また思想信条の違いや金銭関係のもつれ等で仲違いすることは、よくあることです。私にも「思想信条」がありますが、それよりも「義理人情」のほうが強いと思っています。私は相手が、どのような思想信条であっても受け入れるようにしています。
 軽蔑の対象としては、プロフィールにも書いている打算的でお金に汚い人弱い者を助けない人、そして人の不幸を笑う者です。しかし、来るもの拒まずですので、そのような人物と関わる機会もあります。お金儲けも大嫌いです。
 自分の出世や利益そして保身のために他人を貶める者。このような人間を見ると虫酸が走ります。

白黒写真をカラー化
 昭和30年代の札幌市北4条西20丁目(市電 西高校前) 自宅屋根の上から撮影
電車通り東側が桑園小の生徒の縄張り、西側が日新小の生徒の縄張り

 いま、世界では戦争や内乱、テロがいたるところで起き、そして資産家階級など一部の人間達の利益のために人類が分断されています。
 私が子供の頃、子供同士で分断した地域に住んでおりました。つまり、行政や大人達が分断したわけではなく、子供達が勝手に縄張りを作り分断した地域です。
 それは、私の家がある電車通りの東側は桑園小学校(学区)の縄張りで、西側は日新小学校の縄張りでした。電車通りを挟んで、日新小学校の生徒が大勢で「ソウエン底抜け小学校」と罵声を浴びせたら、桑園小学校の生徒達から「ニッシン憎まれ小学校」という罵声が帰ってきたのです。
 昭和20年代の「桑園小学校」は、これ以上ボロっちくなりようがないくらい傷んでいたのです。なにせ、私の父親の小学生時代からの建造物であったため、ボロっちいのは当然でした。

 しかし、私は電車通りの向こう側、つまり桑園小学校の生徒の縄張りにある市場「当時は廉売(れんばい)と呼ばれていた」にお菓子やお焼きを買いに行ったり、貸し本屋にマンガの本を借りに行くことが多かったので、そこのおばさんや子供達(当然、桑園小学校の生徒)にも、たくさんの友達がおりました。
 つまり、私は日新小学校の生徒ですが、桑園小学校の友達も多く、また父の母校で後輩でもある生徒達に「ソウエン底抜け小学校」などとは言いにくかったわけです。
 それから、およそ10年後の1968年、私は北海道大学で勤務することになりますが、日本全国では大学紛争の真っ最中でした。東京大学では翌年の1月、全共闘過激派に占拠されていた安田講堂の陥落で、大学紛争が収まったかに思えましたが、1969年4月、全国の大学紛争は北海道大学にも飛び火しました。
 しかし全共闘五派連合でその中心になった革命的共産主義者同盟・中核派や革命的共産主義者同盟・革マル派にも特に具体的な要求も目標もなく、北海道大学の各部局を封鎖して反帝国主義、反権力闘争を繰り広げました。

【出典】1970年北大闘争の記録『斗う集団』(藤色の叛乱)

 北海道大学工学部(北大工学部)には「黒い旗」を掲げた「斗う集団」という教職員が指導した過激派組織もありました。
 彼ら「斗う集団」は、まず北大工学部の学生自治会の活動が日共民青に独断されているとしてリコール運動を繰り広げ、学生自治会の会長や副会長選挙(写真参照)を僅差(斗う集団によるとこれを圧勝という)で勝ち取り、更に「斗う集団」は、諸要求貫徹のため工学部の封鎖にあたり、欺瞞に満ちた「工学部封鎖反対署名」と称する運動を展開し、封鎖反対が少なかったため、学生の多数は封鎖に賛成したとみなし北大工学部の封鎖を決行したのです。

教職員と一般学生に奪われた「斗う集団」のシンボル「黒旗」(イメージ)

 しかし私はここでも、子供の頃の桑園小学校と日新小学校の生徒同士の争いと同様に「斗う集団」の中にも、日新小学校時代の同級生がいたのです。
 また「斗う集団」を指導していた教官も私と同学科の先輩で、札幌ススキノのバーで接待を受け「一緒に闘わないか」と誘われたこともあります。
 そのような経緯もあり「斗う集団」のメンバーには私の名前や顔が知れ渡っていたと思われます。

 北大工学部の封鎖が長期にわたって実行された結果、一般学生や教職員の怒りが頂点に達したとき、工学部玄関前で騒動が起き、そのとき教職員と一般学生は「斗う集団」のシンボルである「黒い旗」を奪ったのです。

 暫くして、数十人の人数を揃えた「斗う集団」は一斉に北大工学部玄関から「旗を返せ」と叫びながら飛び出してきたのですが、なぜか教職員の先頭にいた私の前を通り過ぎ、後から来た教職員を攻撃したのです。
 どうやら「斗う集団」は、私を敵にしたくないのか、敵にするだけの価値がないのか分かりませんが、私のほうも彼らの味方にならなくて良かったと思っています。
 その大きな理由は「斗う集団」の指導者の一人である教官の一言です。
 それは私が共産党員でもないのに何故か「共産党を支持するくらいなら自民党を支持するよ」の一言でした。
 共産党にしてみれば、私が共産党員では迷惑でしょうし「斗う集団」のような過激派の指導者が支持するようではもっと迷惑でしょうね
 そもそも「斗う集団」は一体、誰のために闘っていたのでしょうね。
おわり
 2024/1/1 石川栄一
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魔の踏切とマグロ

昭和の時代、桑園駅近くの踏切にお地蔵さんが建った訳

「桑園延命地蔵尊(右)」写真は合成です。

 私が子供の頃、昭和20年代、汽車に乗って銭函や蘭島に海水浴や旅行などに行くときは必ずこの踏切を通ります。札幌駅を発車してから直ぐに、カンカンカンカンという踏切の警報音が聞こえてきます。そして汽車の窓から見える大きな地蔵の前を通り過ぎるとき、子供ながら何となく、しんみりとした気持ちになります。それは、父親から地蔵が建った訳を聞いていたからです。

 当時、戦後の混乱期、鉄道自殺が多くて、鉄道公安官だった父親は、その度に現場検証に行ったようです。現場は機関車と客車の車輪で、細切れにされた死体が散乱しており、丁度「マグロ」の刺身のようだったそうです。
 父親が一昼夜勤務の翌朝、自宅に帰ってきたときの言葉、今日も「マグロがあがったぞ」という一言です。その言葉が今も耳に焼き付いています。

 鉄道は、明治の開拓時代に大木を避けて線路が敷かれたため、見通しの悪い北7条西11丁目の踏切は死亡事故が絶えず「魔の踏切」と呼ばれました。そのため、地蔵は、慰霊と魔よけのため建立されました。
 「魔の踏切」で不幸にして命を落としてしまった人の数は、実に364人にも及んだそうですが、やがて踏切に警報機と遮断機が設置され、踏切事故は大幅に減少し、昭和47年(1972年)の札幌冬季オリンピックの直前に立体交差となって「魔の踏切」は姿を消しました。


桑園延命地蔵尊の由来



由来(昭和2年7月)

 函館本線 札幌市北6条西9丁目より西11丁目に至る地内に於いて、明治7年鉄道開通と義経丸 辨慶丸と称する機関車運転当初以来 今日に至るまで変死と事故死を為したる人364名に及び、人は之を呼んで魔の踏切と称するに至る。
(以下略)

魔の踏切があった場所

札幌市地圖 1946年発行 魔の踏切「赤文字」

 1946年発行の札幌市の地図を見ればお分かりのように、西11丁目通り(石山通り)は国鉄 函館本線の踏切「魔の踏切」で終端となっています。踏切の向こうは北海道大学の構内です。
 従って、この「魔の踏切」を通行する者の多くは北大の学生や教職員、そして出入業者で、不幸にも踏切で列車にはねられた学生や職員も結構いたようです。
 また「魔の踏切」では、踏切事故死の他に自殺も多く、当時は生活保護といった制度もありませんでしたので、将来を悲観した人々が多かったようです。


札幌市地図 2017年発行 魔の踏切「赤文字」があった場所

 2017年発行の札幌市の地図を見ますと「魔の踏切」があった場所は、高架になっていて踏切はありません。現在はその近くで静かに建っている「延命地蔵尊」だけが当時の面影を伝えています。


鉄道公安官時代の父(中央)

 鉄道自殺があれば「マグロがあがった」と言っていた父親ですが、それから間もなく鉄道公安局から鉄道管理局に移動しました。酷たらしい自殺者の遺体を見るのが辛かったのかも知れません。
 しかし皇軍の一兵卒だった父親は、戦時中、中国で敵を7人も殺したと豪語していましたから、死体を見ることには慣れていると思うのですが、同胞の場合は別なのかも知れません。
 同胞でも、搾取する者、騙す者、殺す者、日本には政治屋を筆頭に、このような鬼畜が氾濫している事実を思えば、とても同胞とは思えない人間が多すぎます。もっと、平和で豊かな社会を築くために、公正に、清く正しく美しく、生きていけないものでしょうか。
おわり
 2023/12/22 石川栄一
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余談

 戦後、多くの国民は、食べていくのでさえ困窮していた時代でしたので、母親は食料品の買い出しの日々だったようです。また、ヤミ米も横行し、警察に見つかると没収されたそうです。
 私の母が言うには、叔母の家から貰った米でさえ、警察に没収されたそうです。母は「あの米(没収された米)は警察が食べたんでしょうね」と言っていました。ヤミ米として没収した米は、いったいどこに消えたのでしょうね。
明治女と昭和女そして令和女

明治の女


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旧制・北海中学校教師一同」昭和初期
父の卒業アルバムから

 日本は明治から戦前・戦中の昭和の頃までは「家父長制」が主流でした。その基盤は「家制度」を制定した明治民法にあります。つまり、「家長である戸主と家族の関係」を「天皇と国民の関係」になぞらえ、天皇は国の家長であるとして、親孝行などを強く説いたのです。

 このように、男性が支配的で特権的な地位を占める社会システムである中で、妻である明治の賢い女性は、表向きは主人に対して従順であるかのように装い、その裏では主人の手綱を握り、上手に振る舞っていたのです。

 仏教や儒教道徳の有名な言葉で「女は三従」に、『家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従う』という女性としての心がまえを教えた言葉がありますが、これも明治の賢い女性の手にかかれば、主人を自分の思い通りに操り、賢ければ賢いほど、最終的には家の全ての財産を手にすることも出来たのです。


昭和の女


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旧制・札幌高等女学校の裁縫授業」母の卒業アルバムから
戦時中 昭和18年頃(札幌は空襲がなかった)

 戦後の憲法改正と民法改正で家制度は廃止されましたが、「嫁と姑」問題や相続問題などが残ります。また「」という存在も残りました。
 例えば、結婚式は「○○家」と「●●家」結婚式場というように、「新郎新婦名」ではなく「」名の看板が結婚式場に掲示されたのです。

 結婚も家同士ですから、息子や娘の希望よりも、親の希望が優先され、親が反対すれば当然、結婚もできません。その場合どうしたかと申しますと「駆け落ち(婚姻を達成するために相思の2人が相伴ってひそかに他所へ逃げる)」でした。
 また、いざ目出度く結婚することが出来たとしても「嫁と姑」問題があります。現在の宝塚のようなパワハラが、姑からされるのです。小姑もいたら最悪です。
 その結果どうなるかと言いますと離婚につながります。悲しいことに、私の知人でも「嫁と姑」問題のもつれから離婚した夫婦が結構います。
 葬式も同様に葬儀場の看板には現在の「故●●●●儀葬儀式場」という故人名ではなく「○○家葬儀式場」等のように「」名で掲示されたのです。

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旧制・札幌高等女学校の茶道教室」母の卒業アルバムから
戦時中 昭和18年頃(札幌は空襲がなかった)

 戦後、アメリカで1960年代から1970年代にかけてウーマンリブという運動が起きました。これは女性たちによる女性解放のための運動で、世界中に広がり、日本でも1970年10月21日、国際反戦デーの日に、初めての「女性解放街頭デモ」が行われ、1970年11月14日には、東京の渋谷において、日本で初めてのウーマンリブ大会が開催されたのです。

 ウーマンリブ運動がアメリカで始まったと言うことは、日本の女性と同様に、束縛されていたと言うことなんですね。つまり、アメリカのウーマンリブ運動は、次の状態から女性を解放したいというものです。

 ・女性とは、母として無償の愛を与える者
 ・女性とは、妻として夫のために尽くす者
 ・女性とは、家事や育児を当然のようにこなす者
 ・女性は女性らしくしなければならない
 ・女性とは、社会において限られた役割を果たしていればいい者
 ・女性とは、男性の補助的な役割のみ担当していればいい者

 アメリカの女性は、男性中心の価値観が普通とする社会に対して、女性たちが「NO」を突き付けた運動でした。しかし私は、男性中心の価値観が押しつけられているというのは被害妄想かと思います。

 例えば「女性とは、母として無償の愛を与える者」とありますが、私は当然のことと思います。母として「無償」の愛ではなく「有償」になったらとんでもない社会になるでしょう。
 「妻として夫のために尽くす」や「家事や育児を当然のようにこなす」も問題ないでしょう。
 「女性は女性らしく」も「社会において限られた役割を果たす」も「男性の補助的な役割のみ担当」も、男女同権だとかいくら綺麗事を言っていても、内心はそのような考え方の男性が多いのも事実でしょう。

 それは、男性中心の価値観がどのようにして生まれてきたかという現実を見れば分かります。
 例えば、男は公共施設、ガス・水道、道路・線路、電話・電気などの社会や経済、国民の生活を支える基盤であるインフラを担う。具体的にはダムや発電所。巨大防潮堤、トンネル工事、鉄道網、新幹線や地下鉄工事、高速道路などの交通システム、超高層ビルなどの土木・建築工事。そして医学や理工学の分野で中心となって仕事をしているのは、やはり男性です。

 青島幸男作詞で植木等の歌にもあるように「万里の長城」や「戦艦大和」は男が作り、女は「炊事洗濯」なんです。男性中心の価値観が優先されるのは無理もありません。
 そこでそれを解決するには、やはり昭和の女性も明治の女性と同様に、従順であるかのように振る舞い、男を手玉に取るように手綱を握り、うまく生きる方が利口であり、またそのように生きてきました。


令和の女

 令和の女と申しましても、昭和、平成、令和に渡って生きてきた女性も多いと思います。明治の女のように家父長制での経験も無く、昭和の女のように女性解放運動の経験も無い、私から見れば、極めて平穏で恵まれた生活をしてきたように思います。
 しかしなぜか不幸せな女性も多く、昭和の「女性解放運動」とは真逆で「働くことが嫌いで、夫に養われることが当然」と思っている女性や金銭管理ができない女性も多いのです。
 また高学歴の女性はプライドだけは非常に高く、見栄張りのが多いのも、昭和の女性とは大きく異なります。
 こうした中で「生涯独身女性」も増えています。その結果「生涯独身男性」も増加しているようです。男性の収入が低いため結婚が出来ないのも大きな理由です。
 これは、自民党政権による炭労や国労などの「労働組合潰し」に奔走したマスコミと政治体制の問題でもあり、別の機会に述べたいと思います。

高齢者施設でのイベントにて」令和3年

女が年取ると勇ましくなるのはナゼ

 さて最後に、女が年取ると勇ましくなる理由ですが、女性ホルモンと男性ホルモンのバランスによるものと言う人もいます。
 私は、多くの女性は、長年にわたって男社会に抑圧されてきたという言葉には表せない潜在的な「恨み」「妬み」「嫉み」などが、自然と顔や行動に表れてしまうのではないかと思っています。
 「鬼ばばあ」と呼ばれるお婆さんもいるようですが、「鬼じじい」という言葉はあまり聞いたことがありません。
 「鬼ばばあ」と呼ばれるお婆さんでも女性には代わりはありません。
 「母性本能」に訴えれば優しくなるでしょう。
 あるいは「世話になった」と一言いうだけで全て丸く収まります。
 私の父も、最後に一言「世話になったな」と言い残して世を去りました。
おわり
 2023/12/13 石川栄一
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「オス化」する女性たち やりがい追い大黒柱に

低温世代の経済学パート2(4) 2012年3月27日 7:00
◆一口メモ 薄れゆく"らしさ"
 女性の「オス化」意識がじわり広がっている。NECが昨年末に25~35歳の未婚女性に実施した調査では「奥さんや秘書が欲しい」「彼氏よりも仕事が優先」と考えている人がそれぞれ回答の3割を占めた。一方で、「自分よりも男らしくない男性が周りにいる」との回答は7割に上る。若者の意識や行動から「男らしさ」「女らしさ」という区分は次第に薄れつつあるようだ。
(日本経済新聞より)
道庁で働き過ぎて叱られた
 私が以前にも述べましたが、小学4年生の頃から報道関係で働いておりました。報道関係と申しましても新聞配達なんですが、その目的は小遣いを貯めてお菓子を買って食べたり、模型の飛行機や軍艦を買って組み立てるのが楽しみでした。
 そして中学生になると、昭和30年代(1950年代)当時はまだ出始めのトランジスタラジオを組み立てたり、ばらしたりしているうちに、これもまだ出始めの真空管式のステレオアンプの製作に懲り始めました。アンプ用の真空管は、それほど高価ではないのですが、アンプの基盤とも言える電源トランスや出力トランスなどのトランス類が相当高価(今でも高いです)だったため、何とか安価に、出来ればタダで入手する方法を考えました。

 友人はアマチュア無線局を回って不要になった真空管やトランスを貰っていたようですが、私にはそのような知り合いはいないので、雑品屋巡りをしました。
 数カ所回ったところ、雑品屋の倉庫の奥のほうに、壊れたラジオや真空管、トランス類が山ほど積まれていましたので、店主のおじさんに「これください」と言うと「持って行っていいよ」とタダでくれました。子供だからお金がないと思っていたのでしょう。

 コンデンサーや抵抗類は札幌時計台近くの「大阪屋」で揃え、ステレオアンプは約1ヶ月で完成しました。最初作ったのがST5極管の「42プッシュプル(以下PP)」のアンプ、次はGTビーム管の「6V6PP」アンプ、そして3極管の「2A3シングル」アンプと徐々にエスカレートしていき、真空管アンプでは出力管に「6R-A8」や「50CA10」といった3極管を採用したアンプに落ち着きました。なんだかんだで20台以上のステレオアンプを作ったと思います。

 アンプの次に懲り始めたのは、スピーカーボックスの製作です。
 バスレフ型や密閉型などいろいろ作ってみましたが、最終的には大型の密閉型に落ち着きました。その甲斐もあってか、北大に勤めるようになってからも、アンプなどの組み立てをしてきたことが、仕事に役に立ったと思っています。

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小学4年生の頃の私のクラス(朝の会)
左上が担任の女性教師。中央上の議長役がクラス委員。

 さて、道庁でのアルバイトについてですが、最初は1964年(東京オリンピックの年)に、北海道教育庁「総務部施設課」でアルバイト、次に思い出すのが、58年前、1965年の国勢調査です。現在は、インターネットの「スマート国勢調査」で数分で終わります。
 当時の国勢調査は、各市町村が調査した調査票が、道庁の企画部に集められました。私達はそこで、必要事項が調査票にきちんと記入されているかどうかを確認し、誤記やマークの仕方などを修正後、段ボール箱に詰め、総理府統計局に送る準備をしました。
 私と同じ係に、若くて可愛い女の子(当時、アイドルであった由美かおるにそっくりな16歳くらいの女性)がアルバイトとして採用されていました。

デビュー当時の由美かおる(出典)クラウン

 私と女の子が1日がかりで荷札にゴム印を押して、ようやく終わった頃、係の主任が深刻な顔をしながらやってきました。主任は私たちに、ゴム印に誤りがあると言うのです。そこで私は、ゴム印を押した「荷札」をよ~く見ると、差出人の住所(都道府県名)が「北海道」ではなく「北道道」になっていたのです。それを見た私と女の子は呆気にとられました。

 主任は「何百枚もゴム印を押していて気づかなかったの?」と言いましたが、私は「まさか、ゴム印が間違っているとは知りませんでした」と答えるしかありませんでした。
 そして私は「ゴム印を押し直しますか」と聞きましたが、主任は「もう締め切りに間に合わない」と残念そうに言い残して席に戻って行きました。

 私は、総理府統計局の締め切りに間に合わないのが分かっているのなら、私達に、わざわざ言いに来る必要はないと思いました。一日中、朝から晩までかかって一生懸命にゴム印を押してくれた女の子も可哀想です。第一、仮にゴム印を押す前に、間違っているのが分かったとしても、ゴム印を修正に出すと、やはり締め切りに間に合わないことには変わりはないと思います。

そもそも、これは誰の責任なんでしょうね。
 1.ゴム印を発注した主任の責任か?
 2.ゴム印を造ったハンコ屋の責任か?
 3.ゴム印を押した私と女の子の責任か?
それは58年経った今でも疑問です。

北海道庁と前庭(撮影)石川栄一

 「国勢調査」の仕事が終わった後、3月、1960年代当時、道庁本庁舎にあった「国民年金課」でのアルバイトの思い出です。
 それまで私は道庁の職員は皆、地方公務員かと思っていましたが、国家公務員もいたのです。しかも大勢100名位。いわゆる「地方事務官」という職員です。
 私の係には職員が12名、その半数は学生アルバイトの非常勤職員でした。北大工学部の事務部の係員は3名~4名位しかいませんでしたが、その3~4倍もいたのです。
 どのような仕事をしたかと簡単に説明しますと、予算から支出した年金総額と北海道の国民年金受給者数万人の名簿にある支給額の合計と一致するかどうかを計算するのです。
 期限は3月末日で、気の遠くなるような仕事ですが、私以外の職員はそろばんと機械式計算機で計算していました。
 私はそろばんは苦手でしたので、「手製の計算機」を作り、そろばんとは比べものにならないくらい(と思っていた)高速で集計を出していきました。

 そして、ある大掃除の日、床の掃除や窓ふきなど1時間位で終わり、職員はやれやれといった感じでした。私はすぐに書類を引っ張り出し「手製の計算機」で仕事を始めたとき、若い職員が私に向かって「何の権限で仕事を始めるのか」と怒鳴り始めたのです。
 私は訳が分からないので、ただ聞き流していましたが、窓側の席にいた主任が「大掃除が終わったらコーヒータイムにしようと思っていました」と言うのです。しかし、私はそんな事は聞いていなかったので仕事を始めたわけです。
 そして学生の私を怒鳴りつけた若い職員は、係長から注意されていました。

 その時、私の隣にいた非常勤職員の女性から「集計が早く終わると仕事がなくなるよ」と言われました。
 私は「獅子は兎を狩るにも全力を尽くす」ということわざがあるように、どんな仕事でも全力投球でやるべきで、仕事がなくなっても次の仕事を見つければ良いと思いました。
 道庁とは不思議な職場で、何が何だか訳が分からない一日でした。

そもそも、いったい誰が一番悪いのでしょうか
 1.大掃除後、仕事を始めた私(石川)が悪い。
 2.コーヒータイムの連絡をしなかった主任が悪い。
 3.仕事を始めた私を怒鳴りつけた職員が悪い。
これも今でも分かりません。
おわり
 2023/12/09 石川栄一
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※ 北海道教育庁でのアルバイト ※
1964年、東京五輪の開会式。日本選手団の入場行進。
男子と女子の背丈の差。昭和の女性は小さかった。(写真/共同通信社)

 1964年10月、アジアで初めてのオリンピックが東京で開催されました。
 当時私は17歳。叔父のコネで、北海道教育庁の総務部施設課(職員数約50人)の助成係でアルバイトをしておりました。
 私の他にも女子大生アルバイトが数人おり、美人揃いでした。道庁では、容姿端麗でなければアルバイトを採用しないのかな、と思ったりもしました。

 施設課には、地方の道立高校から、校舎の増築や修繕などを陳情しに毎日のように校長先生や教頭先生が訪れていました。
 私は、その光景を見て、北海道教育庁の施設課の職員は、高校の校長や教頭よりもエラいのだと思いました。特に、ガラス張りの製図室で作業をしているエラそうな技師の姿を見て憧れましたね。

 私の仕事のほとんどは、文章の校正やコピー取りでした。また当時は電卓もなく、計算はソロバンとタイガー手回し計算機で、事務室に入ると計算機の音で「ガラガラガラ、チーン」とパチンコ屋やチンドン屋でもやっているように賑やかでしたね。
 ゼロックスも無い時代で、ガリ版で原稿を作り謄写版や輪転機で印刷しました。コピー機もまだ出始めで、ジアゾ式複写機(いわゆる青焼き)でした。

 ある日私は、主任が1時間以上かけて作成した原稿を持ってきて「100枚コピーして下さい」と頼まれたので、作業を始めた途端、原稿がローラーに巻き付き、一瞬にしてパーにしてしまいました。
 私は、怒られると思いましたが、そこは寛容といいましょうか、主任は、同じ原稿をまた1時間以上もかけて作り直し、今度は主任自らコピーしていました。
私にやらせるとまた原稿がパーになると思ったからでしょうね。

 東京オリンピック開会式の前日(10月9日)、係長から「課長の家のテレビ修理に行ってくれませんか」とお願い(命令)されました。
 当時、道庁は、土曜日は半ドンで、午後から修理に行くことにしました。

 そして、東京オリンピック開会式の当日、係長は私が家に帰ってしまうんでないかとビクビクしているようでした。
 いちいち「石川君もう帰っちゃうの」と聞いたりするので、そんなに私が信用できないのなら、電気屋に修理を頼めば良いのに・・・とまでは思いませんでしたが、係長の態度が、17歳の私でも気にくわなかったですね。

 10月10日(土曜日)の午後、課長の官舎まで、工具とパーツを持った私を道庁の運転手付の公用車で送ってくれました。
 当時はなんとも思いませんでしたが、今思えばテレビ修理のために公用車を使うのは、なんだか変ですね。しかしまあテレビ(当時ですから真空管式の白黒テレビ)は官舎の備品だったのかも知れません。
 課長の官舎だから、さぞかし広い家なんだと思いきや、居間は6畳間で、そこに家族全員がいらしたので、すごく狭く感じましたね。

 故障の症状は、テレビのラスター(画面)が出ない。画面は真っ暗でしたので、故障原因は直ぐに分かりました。修理の方は、水平出力管(6BQ6)を交換して完了。所要時間は約5分でした。6BQ6は高価な球で、当時1本、2000円位(大卒の初任給が約2万円の時代)だったと思います。私は真空管代のみを頂いて、帰りました。
 道庁職員の寛容さといえば、勤務時間中でも職員食堂のテレビでオリンピック中継を見ていましたね。まあこれは寛容というよりも、単なるサボりでしょうね。特に、東京オリンピックでは、柔道、無差別級のヘーシンクと神永昭夫の試合。「東洋の魔女(日本)VS ソ連」女子バレーなど、事務室はその話題で盛り上がっていました。
おわり
目次
過去のつぶやき

元北海道大学大学院工学研究科・工学部 文部科学技官 石川 栄一
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