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2023/7/5 アクセスカウンター

近況報告 2023/7/5 石川栄一
みなさんこんにちは。
 七夕の候、日を追うごとに夏らしくなるこの季節、いかがお過ごしでしょうか。私、今年の3月にかかりつけの医師から「心筋梗塞(中隔梗塞)」の診断をされましたが、今のところ体調に大きな変化はありません。多少、不整脈と息苦しさを感じる程度です。おそらく処方された心臓と血圧のクスリが効いているのでしょう。
 昨年の10月、同窓生の三回忌に出席のため青森県の黒石市に行ったときは、相当に息苦しさがありましたが、今はそれほどではありません。
 何せ、フェリーターミナルからフェリーの客室に向かう通路で、50m歩く毎に一休みしなければなりませんでしたが、現在は、庭木に登って枝の伐採もできるようになりました。

自宅門回りとサツキ

生と死と

 この歳(後期高齢者)になると、いつ死んでも当然と思います。まあ、悔いは残りますが、仕方がないと諦めるしかないでしょう。
 昔、50年以上前の話ですが、当時問題になった「不幸の手紙」という郵便物が自宅に届いたことがあります。それにはこう書かれてありました。
この手紙は不幸の手紙です。届いてから3日以内に、これと同じ文章の手紙を5人に出さなければ、あなたは5年以内に死にます

 もちろん、差出人の住所や氏名は書かれておりません。気の弱い人間が他の人物から届いた「不幸の手紙」の内容に従って回しているのでしょう。
 それにしても、まだインターネットが普及していない時代、私の住所氏名を知っているのは、親戚や同僚そして同窓生など顔見知りばかりです。いま、それを考えると少しガッカリします。

 腹が立ったので「不幸の手紙」は即座に破り捨てました。既に50年以上も経過しているのですが、私はまだ生きてます。
 まあ脅迫状のようなもので、私は何人目になるのか分かりません。また伝聞のようなものですから、途中で文章が崩れてきていると思うので、原文の内容を知りたかったですね。
 この「不幸の手紙」騒動で幸福になったのは、当時の郵政省だけかも知れませんね。何せ、郵便物のねずみ講のようなものですから。
 「不幸の手紙」とは関係はありませんが、身内の不幸は続きます。
 今年5月には私の従妹がガンで亡くなりました。


■「死ぬ」ことと「殺される」こと

 ふつう「戦争で死んだ」とか「交通事故で死んだ」などといっていますが、ほんとうは「死ぬ」ということと、「殺される」ということとは違います。
 この二つのことは、きちんと区別して考えられなければいけないと思います。
 戦争で死んだことも、交通事故で死んだことも、じつは殺されたことであり、また、殺されることでは、年が若くて、病気で死んでゆくばあいも、多くは病源菌やガン細胞によって無理やりに殺されたことになります。
 事故でもなく、病気でもなく、年をとって枯れるように自然に死んでゆく、その自然死こそ、ほんとうに死んだということと思います。


人間の寿命の限界は150歳

 米国・シンガポールの最新共同研究によりますと、人間の寿命の限界は150歳までだそうです。研究によりますと、人間の寿命は2つの要素と関係があるといいます。その1つは生物学上の年齢、もう一つは回復力です。

 ティモシー・ピルコフ博士によりますと「120歳から150歳に達すると、人間の回復力は完全に消失するため、寿命の限界はそこまでということになる。医療技術が進歩し、関連のバイオテクノロジーが発展するにつれて、人間の寿命はどんどん限界である150歳に近づいていくことになるだろう」との見方を示しています。


 私たちが、死の恐怖におびえ、生と死の問題を、問題にせずにいられないのには原因があります。最大の原因は、自分がいつ殺されるかわからない世の中に生きていることにあります。
 そのような国民の不安をデマで煽って改憲に誘導する自民党政権のやり口は許せません。例えば、自民党製作の改憲マンガは、ウソで国民の不安を煽ります。「あした、敵国が攻めてきたらどうするんだあぁぁ!?」と。
 攻めてくるどうのこうの言う前に、攻めてこないように外交力で平和交渉すべきです。もし攻めてくるようなことがあれば、現在のウクライナ同様、日本は廃墟と化し、石器時代に逆戻りします。

 そもそも、日本のような何の資源もない、福島第一原発の放射能と汚染水に塗れた少子高齢化の国を侵略しても何のメリットもなく、侵略者は膨大な数の老人介護などで不利益を被ることになります。
 日本側としても、54基のポンコツ原発の一基でもミサイルで破壊されたらもうお手上げです。福島第一原発でさえ廃炉化するのにあと30年以上かかるというのに、さらに他の原発が攻撃されたら、防衛だとか言う前に日本はお仕舞です。
 しかも「食料」も「」も「」も自給できない国が戦争など出来るわけがないのです。今からでも遅くはないので、中国や北朝鮮そしてロシアなど、お隣さんと、もっと平和的に話し合いましょう。


■死の恐怖とその解決

 人間はなによりも生命の不安をいちばん鋭敏に感じます。自分がそれを感じていると意識しなくても、その意識以前の状態で反射的にそれを感じます。
 いいかえれば、からだでそれを感じます。「からだで感じたこと」が意識を襲って、死の恐怖という観念をつくりだします。

 前述しましたように、生命の不安を感じさせるものとして、第一に戦争があり、これが一番大きい恐怖の原因になります。自分が直接戦争を経験しなくても、ロシア・ウクライナ戦争のように、インターネットやテレビなどでその状況を見ただけでも、それは死の恐怖の原因となりまず。

 また現在も日本各地で起きている災害や事故、そして失業、生活苦、全て体で生命の不安を感じさせる事情になっています。
 このような死を恐怖する感情は、いつ、どこで、自分の意識を襲うか分かりません。わけもなく心を襲います。それは、意識以前に、このからだが、反射的、あるいは本能として生命が危険を感じているからです。

 野原や森にいる小さな昆虫でさえ、捕らえようとすると、一目散に逃げていきます。昆虫さえ、生きていることを楽しみ、そして生命の危険を体で感じて逃げるのです。
 私たちは、この死の恐怖から、どのようにしたら逃れられるのでしょうか。
 ある人は神や仏にすがり、生命を神仏にまかせようとします。自分の命の行方は神のみぞ知るということになり、自分の生死が他人ごとになってきます。

 またある人は、生命を脅かす一切の危険を現実にこの世界からなくし、戦争がもう二度とおこらないようにするように、デモや集会を開き政府と闘います。更に、同時に選挙で、失業や災害対策も、事故もなくすことのできる、そういう政治をつくりだすために闘います。
 また感染症や癌などの病気についても、科学や医学を発達させ、充分に予防措置ができるような世のなかをつくることであります。こうして、私たちの心の中にある死の恐怖はなくなってゆきます。

 ところが人々の中には、死の恐怖を取り取り除こうとする努力をせずに、ただいつまでも死を恐怖しているだけの感情があります。これが、いつまでも続いた場合には一種の病的なものとなります。

「兵馬俑」 The First Emperor of China
兵馬俑は秦の始皇帝陵の一部として1987年、世界文化遺産に登録された。
始皇帝が目指した 「不老不死」

■死とはなんであるか

 殺されることが、まったく、なくなったしても、人間には避けられない自然死ということがあります。仏教では、「生者必滅」(生きているものは、必ず死ぬ)といっています そうして仏教は、生きることと、死ぬことの、この二つのことをならべて、この二つの重さを等しいと見ています。

 仏教では、生まれることをプラス5とし、死ぬことはマイナス5として、プラスマイナスして、人生をゼロと見ています。「死とは人生をゼロにする」というのです。
 しかし、下等な生体である「細菌」のなかには 自己分裂をして繁殖してゆくものがあります。一つが分裂して二つになり、その二つが四つになる、そういうように繁殖してゆくのです。もしこの細菌が殺されることがないとしたら、この細菌は無限に繁殖していき、プラスマイナス=ゼロにはなりません。

 生物は、よく発達したいわゆる高等なものになるほど、生と死がはっきり分れています。下等なものほど、自己分裂をしたりして、生と死がはっきりしていないのです。下等なものの繁殖がすなわち死です。

 しかし死とはなんであるかという死の本質は、下等な生物に、最も単鈍なかたちであらわれています。生物にとって、死とは、すなわち、繁殖であり、より発達した生をつくりだすことであります。死は生の否定のように考えられていますが、もともとは死は、より大きい生の肯定であります。一粒の麦は、みずから死んでゆくことによって、何百粒の麦をつくりだしてゆきます。
 根本的にいいますと、生物は生きているから死ぬのではなく、自分より以上の生をつくりだすために死があります。死は生の否定ではなく、より大なる生の肯定です。

 細菌のような下等な生物は、親が子どもを育て守ることがありません。
 そのために繁殖はしても、その成長は不確実となります。
 哺乳動物のようなものになりますと、親が子どもを育て、守ります。そうすることによって、その繁殖は確実となります。子供が成長すると、やがて親が死んでゆきます。生は孤立しては成りたちません。
 連続した流れのなかに、自分の生は成りたっています。


■愛と死

 人間生活のすべては、やがて人間が死んでゆくところに成りたっています。永遠の生とは、「路傍の石」ころとおなじだということであって、それは生きていないということであります。
 自然死をおそろしい絶望として感ずるわけは、死そのものからではなく、いまのこの生、この生活から、その恐怖がにじみだしてくるのです。
 死の恐怖を解決するのは、人間と人間との心からの愛情であります。

 社会が、個人主義者、あるいは利己主義者でいっぱいになり、自分のことばかり考えているような人ばかりになったときは、人の心は恐怖でいっぱいになります。
 夢や希望、生きがいのない生活は、生きていても仕方がない生活なのに、さらに、死を恐怖する生活なのです。その問題は、死そのものにはありません。生の側にあります。
 死は、無意識であり、無肉体であり、死んだところには、もはや自分はそこに存在しておりません。しかし、人間は、死ぬものであるがゆえに、種族として永遠に生きつづけるものなのです。


映画「タイタニック」 
 2023年6月18日、タイタニック号の残骸の観覧を目的とするオーシャンゲート社の潜水艇タイタン号(乗員・乗客5人)との連絡が途絶え、カナダ、アメリカ合衆国、フランスなどの合同によって「前例のない」と評されるほどの大規模な捜索が行われたましたが、カナダのニューファンドランド島沖合から南東740キロメートルの北大西洋上で潜水中に圧潰・沈没したもようです。

 映画「タイタニック」の監督で、自身もタイタニック号の沈没現場を33回訪れた経験があるジェームズ・キャメロンは、耐圧殻に用いられた炭素繊維強化プラスチックには水圧に耐える圧縮強度がないこと、船体の安全性をリアルタイムで監視するモニタリングシステムは瞬間的な圧壊の対策としては役に立たないことを指摘し、安全性の軽視によって事故を招いたタイタニック号とタイタン号の類似性に衝撃を受けたと述べた。

(ウィキペディアより)

 先日、久しぶりにレーザーディスクで、映画「タイタニック」を観たのですが、それほど感動はしなかったですね。かつては何回も涙しながらこの映画を観た若い女性がいたようですが、この映画の感動は女性でなければ分からないのかも知れません。
 ポスターにもある有名なレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが船首で羽ばたくようなシーンは、東宝映画(1974年公開)「ノストラダムスの大予言」にも似たようなシーンがあります。
「ノストラダムスの大予言」より。東宝(1974年公開)
「タイタニック」より。パラマウント・20世紀フィックス(1997年公開)

あらすじ」 早い話が、老婆の回想から物語が始まり、主役のレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが恋をする。彼女は既に大金持ちと婚約中であるが結婚はしたくないと思っていた。やがて、タイタニックが氷山に激突して浸水、それから1時間で沈没してしまう。二人は冷たい海に投げ出される。ケイト・ウィンスレットは助かり、レオナルド・ディカプリオは冷たい海中に消えてゆく。そして老婆の回想が終わる。

 さすが、セットの規模の大きさや特撮技術の完璧さには圧倒されましたね。そして高度なコンピュータグラフィックスもこの映画に緊迫感を持たせております。
 やはり、この映画は、映画館の大画面で観るに限ります。私のシステムは、投写型の液晶プロジェクターを使っておりますが、70インチ程度の画面のため、まだ小さいですね。できれば100インチ以上の画面で観てみたいです。

 それよりも、問題は東宝映画「ノストラダムスの大予言」が現在もまだ封印されていることです。この映画は現在の世界そのもののようです。
 戦争、大気汚染や放射能汚染。人類は生活向上のために地球環境を破壊しています。しかし、地球が破壊される前に人類が破壊されるでしょう。
 映画「ノストラダムスの大予言」と同様に、至る所で暴動や自殺が発生し、映画では総理が孤立します。
 東宝ビデオ社は封印の理由として、電話で私に「反核団体の苦情で再上映禁止」と回答しましたが、さて真相は。

 では、今日はここまでにしたいと思います。

2023/07/05 石川栄一
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春と夏の庭の花
自宅正面と私設掲示板
 自宅門回りとサツキ
玄関通路
玄関正面と玄関通路
ベコニア
池と噴水
梅の木
桜の木
蓮華つつじ
ゼラニウム
ペチェニア
マリーゴールド
キンセンカ
ビオラ
ベコニア
デイジー
さつき
東屋と噴水
つつじ
ナデシコ
クンシラン
応接室

始皇帝が目指した 「不老不死」
 シェイクスピアのヘンリー4世が言うとおり、王冠を戴く者は、安穏と頭を横たえることができないとは。したがって、こうした支配者に、この無情な消滅の自覚が及ぼす最大の影響が見て取れる。

 長城の内側で、始皇帝は前代未聞の改革を行なって経済を発展させた。
 度量衡(長さ・容積・重さの基準)と通貨が統一され、漢字書体が一本化され、行政と統治が合理化された。
 相争う諸国から、単一の国家が創設された。この国は、始皇帝の祖国である秦(chin =チンと発音)王国にちなんで、今もなお広く中国(China =チャイナ)として知られている。

 紀元前213年に始皇帝は悪名高い命を発し、自分の新体制とは相容れぬ学派の書物はすべて焼かせた。過去の年代記は破棄され、歴史は一から始まることになった。
 延命の役に立つと思われる文書、すなわち、農業や占いや医学に関するものだけが難を逃れた。残りはみな禁書とされ、その所有は極刑に相当する罪と見なされた。

 始皇帝は、秩序ある政治とよく統制された経済が実現可能だと信じていたのとちょうど同じように、不老不死の霊薬(エリクサー)を手に入れることも可能だと信じていた。そこで皇帝は、最高の医師や呪術師、錬金術師、賢者たちを身辺に置いた。

 彼らの任務は、皇帝がありきたりの病気にかかったときに治すことだけではなく、加齢に伴う衰えを食い止め、その最終結果である死を寄せつけぬことでもあった。さらに自分の帝国全土を経巡り、霊験あらたかな山々で供犠を執り行ない、各地で出会った呪術師や学者に助言を求め、彼らが処方した水薬や丸薬、霊薬とされるものを熱心に服用した。

スティーヴン・ケイヴ(哲学博士)著
『始皇帝でも失敗した「不死探求」は、「科学×庶民」で実現するか』より

2023年3月迄の近況報告  北大在職時の主な著書・論文集
2023年3月迄の 近況報告

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元北海道大学大学院工学研究科・工学部 文部科学技官 石川 栄一
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