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<北大紛争後、北大を「文部省北海道出張所」と呼ぶ人も居るくらい、北大は文部省の言いなりの大学に変身した>※文部省:現在は文部科学省
私が北大に勤めることになったのは、1968年の5月であった。それは、ある日、市電(路面電車)の中で、高校時代の恩師に会ったのが切っ掛けである。恩師は当時、北大の応用電気研究所の吉本教授(医学博士と工学博士の二つの学位を持っていた)のところで研究をしており、吉本研究室では、技術職員(文部技官)を求めていると言われた。
その頃、私は国家公務員採用試験に合格しており、自宅宛に北海道警察通信部や苫小牧高専などから面接通知が届いていた。いずれも、気乗りしなかったため、恩師の誘いを受け入れ、吉本教授と面接することになった。
ところが、技術職員を求めているのは、応用電気研究所ではなく、工学部電気工学科の電気回路工学講座だと言われ、吉本教授からは応用電気研究所に空きができたら、戻ってきて欲しいと慰められた。私としてみれば、電気と電子関係の仕事が出来れば、どちらでも良かった。翌日、電気回路工学講座の安田教授と面接した。
しかし、安田教授は、3月に助手を採用したばかりなので、空きがないと言うのである。どうやら安田教授は、助手(教育職)と技術職員「文部技官」(一般職)を同様に見ていたらしい。安田教授は続けて「電気機械学第二講座の田川遼三郎教授のところで技術職員を求めているので、連絡をしておいた」と述べた。
しばらくして、田川教授がやってきたので挨拶をした。田川教授は精密工学科出身の36歳で、教授になったばかりであった。
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右側一階が電気機器学第一講座の実験室、二階は電気機器学第二講座の
実験室、奥には工作室があった。(写真※1) |
翌日、赴任のため、学科主任の小池東一郎教授と人事係長の二人と面談をした。その後、助手に引率されて、電気工学科の各教授室を挨拶回りをした。
それが終了してから、助教授が私の部屋となる実験室に案内してくれた。助教授はまだ26歳で、無整流子電動機の研究をしていた。
実験室に行くに伴って、だんだんと暗くなってきた。べつに夜になったわけではなく、電気工学科大実験室は大正時代の建物が、そのままの状態で保存されているような、博物館的状態(写真※1)であった。大実験室には、発電所にあるような、馬鹿でかい発電機やモーターが所狭しと並んでいた。最初の印象としては、大学ではなく、まるで工場であった。
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電気機械第二講座 実験室でのコンパの風景 (撮影 石川栄一) |
こんなところで、学生や院生が研究ができるんだろうかと思っていたら、うち(電気機械第二)の大学院生が、4人もいたのである。その中には、JR北海道の会長や特別顧問を務めた柿沼博彦(現在、道都大学美術学部客員教授)さんもいた。柿沼さんは、デュアル・モード・ビークル(DMV)の開発指揮者として有名である。大学院生と言っても、いずれも技術職員の私よりも年上であった。柿沼さんは、正義感の強い人で、いつも私の味方になってくれた。
昭和43年の秋から1年間、田川教授が外国出張で留守となった。この間、助教授が講座主任となった。
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私が読み上げた『答辞』 筆字は私の父が書いた。 |
昭和44年の2月、大学本部で新任職員研修会が開かれ、研修会の終了後、受講者代表として「答辞」を述べた。
なぜ私が、受講者代表に選ばれたのか、はっきりとは分からないが、恐らく、私の叔父が、北大事務局の経理部長(当時、その後、旭川医大初代事務局長)だったからだろう。
その年の4月から、本州では既に下火になっていた大学紛争が始まった。
全共闘(中核派、社学同、反帝学評など)・革マル派などの過激派は、まず教養部を封鎖した。その結果、一般学生の勉学の場と教職員の職場が、失われてしまった。
工学部では、職員や学生・院生を中心とする封鎖阻止行動委員会(自警団)が組織され、毎日のように泊まり込みを行い、工学部を防衛した。
一方、全共闘(五派連合)過激派は、真夜中から早朝にかけて工学部に攻撃を仕掛け、玄関ロビーの窓ガラスを割ったり、火炎瓶を投げつけたりした。そのとき、玄関隣の守衛室から守衛長が出てきて、自警団の私に対し「負ける喧嘩はやめなさいよ」と叫んだ。
当時、工学部の玄関は、鉄扉で防御されていたため、過激派の進入を阻止できたが、守衛長は、玄関ロビーを大型の懐中電灯で、サーチライトのように照らしながら意味不明な言葉でわめく過激派に怯え、恐れおののいているようであった。私は、守衛長に後ろに隠れるよう指示した。
ある日、工学部の自警団、約50人が過激派を迎え撃つために、工学部前庭の北側と南側に分かれて待機した。そして午前3時頃、結核研究所の2階の一室で、封鎖された教養部を見張っていた自警団の偵察員から、過激派が工学部に向かったという連絡が入った。
数分後、過激派、約30名が隊列を組んで「帝大解体!民青殺せ!」などと叫びながら、工学部玄関までやってきた。前庭の樹木の陰に隠れている自警団には気づいていないようであった。
そして、過激派が工学部の玄関ガラスを割り始めたとき、前庭南側で待機していた自警団の一隊が「ワァー!」という気勢を上げて、過激派めがけて突撃した。それと同時に、北側の自警団も突撃した。この作戦により過激派は、鉄パイプを投げ捨てて尻尾を巻いて逃げ出した。どういう訳か、火炎瓶は投げ捨てなかった。おそらく、作るのにカネがかかっていたせいだろう。
数人の過激派メンバーが投降した。自警団はその過激派の名前と住所、所属を厳しく追及した。ある過激派メンバーは北大生ではなく、明治大学生だと述べた。また、両親の氏名や電話番号も話したため、早速、両親に電話をしたところ、まだ朝の5時だというのに、家族全員がタクシーで駆けつけた。
しかし両親は「自分の息子ではありません」と述べた。
どうやら、その明治大学生と名乗る過激派メンバーは、自分の氏名ではなく、友人の氏名を述べたと思われる。このような学生が、いくら世直しだとか、正義を主張したとしても、全く説得力がないのである。
自警団は、その過激派メンバーに本人持参の火炎瓶を持たせて、証拠写真を撮影した後、解放した。
その後の北大紛争は、北大以外からも多くの過激派が参加し、北大を混乱に陥れた。中には高校生の過激派や社会人の過激派もいた。
特に理学部は、過激派から、連日のように襲われた。その理由は、堀内学長が理学部の出身であったからだ。また、堀内学長が「過激派はナチスドイツの突撃隊と同じようなものだ」と述べたことが、過激派から反感を買ったらしいが、過激派としては、目的が達成できれば、理由はどうでも良かったのかも知れない。
こんな事があった。工学部の学部長室で、堀内学長が、大野工学部長と大学紛争の収拾について、相談したことがあった。その会談後の夜の10時頃、自警団長から私に、工学部から理学部までの護衛を依頼された。その時、護衛する人物が誰なのか聞かされなかった。それは、学内が危険であったからだ。
工学部の裏玄関(職員食堂の前)で、待っていたら、頭がすっぽりと入るくらいの大きな帽子をかぶった人物が現れた。裏玄関から外に出たとき、顔がチラッと見えた。その人物は写真でよく見る堀内学長であった。
私は、もう一人の学生と共に、工学部の裏を通り、学長を理学部まで護衛した。北大は学長が正面玄関から出入りできないくらい異常な状態であった。
このような状態を打開するために、北大から全共闘や革マル派などの過激派を一掃する必要があった。そのために、まず教職員組合と院生協議会や北大学連を中心とする全学共闘会議は、過激派に占拠されている法文系の建物の封鎖を解除することだった。
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(出典)写真でつづる北大職祖50年『封鎖に抗議する教官団』
各学部で教授会が抗議声明等を出し自主解決に努力した。 |
そして、1969年10月30日(木曜日)、法文系の封鎖解除を決行することになったが、この事は自警団には伏せられていた。当日は、風もなく、空は湖水のように澄んで「理性の府」は誠に、平和そのものであった。
昼休み、工学部前にて、過激派による大学封鎖に抗議する全北大集会が行われ、集会の参加者は、理学部付近をデモ行進した。教官団は、過激派に対し封鎖自主解除を要請したが、それに対し過激派は放水で応えた。
午後2時、別働隊の工学部自警団は、プラカードを掲げながら教育学部の裏に回った。その時、過激派は、教育学部の裏階段から投石を始めた。私のプラカードにも拳大の石が命中したとき、プラカードの板が吹っ飛び、うまい具合に、持っていた棒だけが残った。その棒を持って教育学部の2階から突入した。裏口を警備していた過激派は、法文系の建物内を逃げ回った。
自警団は法文系校舎の殆どを封鎖解除した。法文系の学部内において屋内戦が展開され、劣勢に陥った過激派は、小瓶に詰めた塩酸や硫酸を投げつけた。自警団が2階から3階に上がろうとしたとき、階段からジューという音を立てて白いガスのようなものが上がったので、自警団は危険を察知して、しばらく留まった。
法文系校舎の各教室の中はメチャクチャで、中には、竹を割って作った手製の弓矢が、山ほど積んである教室もあった。しかし私は、矢を見て笑ってしまった。ほとんどの矢が曲がっていたのである。これでは矢を放っても、まっすぐに飛ばずに、ブーメランのように戻って来るのではないか。
経済学部の窓からそとを見たら、デモ隊と過激派が投石合戦をしているのが見えた。屋外では大学構内のほぼ全域で、過激派集団と教職員学生が激突した。双方で負傷者が続出した。私も負傷者の一人である。封鎖解除の最中、法学部の屋上から飛んできた石が、私の足の甲に命中したのである。だが、石が当たったときは、それほど痛くはなかった。
午後5時頃、北大事務局の隣にあった教職員組合の書記局が、過激派に攻撃されているという連絡を受けたため救援に向かった。
工学部自警団は、書記局にいた職員の救出に成功し、午後7時頃、工学部に引き上げた。それから翌朝まで、再封鎖そして封鎖解除が繰り返された。
初めのうちは、それほど痛くはなかった私の足の甲は、次第に痛みを増してきた。その時、過激派が法文系校舎を再封鎖したという連絡が入ったため、再封鎖解除のため、工学部自警団は理学部に行き、そこで待機した。
夜中の午前0時頃、過激派進入阻止のため、北大の中央通り(当時はゲバルト街道と呼んだ)にバリケードを築いた。深夜、午前1時、私は足が痛むため、助手のTさんの肩を借りながら、工学部に戻った。足が燃えるように痛かった。床中で、「見通し暗いでや」とか「封鎖を解除したぞ」という仲間の声が聞こえた。
その朝、病院に行くよう同僚に進められ、足を引きづりながら北大病院の整形外科に行った。すると、教職員と一般学生の患者入り口と、過激派の患者入り口が分かれていたのには驚いた。更に、教職員の患者は個室で待たされた。 これは、病院内で争いになったら、収拾がつかなくなるため、その対策なんだろう。
1969年11月8日、機動隊の導入で、過激派による北大封鎖は解除され、一応、北大紛争が終結した。
北大紛争の終結後、台頭したのは、北大事務局である。「文部省北海道出張所」と呼ぶ人も居るくらい、北大は文部省の言いなりの大学に変身したのである。まず、北大事務局がやったことは、教職員組合つぶしと、学生団体(北大学連など)つぶしである。
北大紛争の最中、北大事務局を中心とする大学管理機構は、何もできなかった。北大事務局の職員は、書類を学外へ持ち出すことと、封鎖されていない学部を逃げ回ることしか能がなかったのである。
また、北大事務局は、警察との繋がりを綿密とした。文部省と北警察署への詳細な報告である。ある職員は、最も力を入れたのは、文部省の指導に基づき国家権力(警察)の導入を、学長や評議会へ「進言」することであったという。
北大教職員組合は、文部省からの干渉に反対し、北大自治の拡大を求めてきたが、Yという庶務課長(茶坊主長)が文部省から派遣され、文部省の支配が一層強まった。
北大事務局による「教職員組合つぶし」では、労働者の生活と権利を守るためのストライキに対し、文部省や政府関係者等は「公務員の争議行為は違法だ」とする不当な攻撃をかけ、北大でも、事務長以下、庶務や人事関係の職員などが総出で「現認」と称して、組合潰しに奔走したのであった。
ストライキに参加した職員よりも「教職員組合つぶし」のために「現認」行動に参加した北大事務局や学部職員の方が多かったのだ。
札幌市中央区の理美容会館で行った集会では、会館を取り巻くように、北大事務局や学部事務の現認隊が取り囲み、集会参加者の写真を撮っていた。
教職員組合の集会場所や時間は組合員にしか分からないはずだが、北大事務局は、組合内に内通者(スパイ)を配置して組合の情報をつかんでいたのである。こんなこともある。整備員(現場系職員)が、学科事務の主任にまで上り詰めたという、本来なら有り得ない例もある。
また、30分程度のストライキに参加した職員を、賃金カットするのであるが、「孫子の兵法」のごとく、用務員のおばさんなど、まず、弱いところから切り崩したのである。30分程度の賃金カットは、当時は、150円程度であるが、用務員のおばさんにしてみれば、気分が良いことではない。この事で、用務員室は、二つに分断された。
北大事務局や学部職員が、集会の参加者を「現認」したといっても、参加をしていないのに「現認」されたという職員も多いので、如何に、いい加減な調査であったかが分かる。私も、一度だけ、集会に参加をしていないのに「現認」された事がある。つまり、北大事務局や学部職員の現認隊が「あいつは集会に参加したに違いない」と決めつければ「現認」したことになったのである。
一方、工学部事務部の現認隊の隊長であったM事務長は、工学部全教職員に「ガン保険」の文書を配布し加入を勧めていた。これは、事務長という立場を利用した行為であり、違法ではないのだろうか。
当時(1974年頃)は、まだガン保険の出始めだった。これは、アメリカンファミリー生命保険会社代理店の場合だが、ガン保険の勧誘にきた担当者は、「M事務部長からの要望です」と言うので、仕方なくガン保険に入った。
当時、M事務部長の要請で、ガン保険に入った教職員は相当いたと思う。
M事務長のあだ名は『片眼のジャック』とか『ノモンハンの生き残り』など色々あったが、良い評判は一度も聞いたことがない。
また事務長第一補佐のO氏は創価学会員、第二補佐のT氏は共産党員であったため、バランスがとれていたのかも知れない。
そのため、北大事務局の情報は各方面に筒抜けであった。文部省の茶坊主集団である北大事務局や学部職員が「公務員の争議行為は違法だ」と言う前に、身内の身体検査をした方が良いだろう。
私と事務職員との関係は、北大に勤めたときから始まる。
昭和43年当時は、給料日になると学科事務の職員が、学科教職員全員の給料袋を持って配って歩いていた。事務職員は給料配達員と思ったこともあり、給料日が来るのが楽しみであった。
また、北工会に「レコード鑑賞会」というサークルがあった。そこでも事務職員の手助けを受けて、会長をすることになった。
自慢話になるが、毎週水曜日、昼休みにレコードコンサートを行い、会長を退任するまで、274回ものコンサートを開催した。
文化祭には毎年、大会議室にてレコードコンサートを行い、500名以上の入場者を数えた。大学祭には工学部前庭でプロムナードコンサート、12月にはクラーク会館でダンスパーティを開催した。
会員の中には、元札幌トヨタ自動車会長の相茶俊介氏もいた。彼は、私がレコード鑑賞会の会長を辞めるとき惜しんでくれた。レコード鑑賞会はぜひ続けて欲しいとも言われた。
これらも、すべて、事務職員の支援があって成功したのである。「組合潰し」に奔走した北大事務局や学部の職員とは一把ひとからげにはできない。
特に、事務職員のOさんには、並々ならぬお世話になった。しかし、そのOさんは不慮の事故で失明してしまった。そのため私は、視覚障害者になったOさんのパソコンのサポートを10年くらい行ってきたが、あることを切欠として、それをやめた。
そもそも、Oさんが所属する事務部が、もっと責任を持って視覚障害者の対応しなければならないのに、私にはほったらかしにしているように思えた。
彼が、交通事故で視覚障害者になった当初は、周りの事務職員が支援をしていたようだが、いつのまにか、Oさんを放置するようになっていった。
しかし、私のような工学部の技術職員が、他部署の視覚障害者の支援をして良いものか疑問を感じてはいたが、放っても置けないので、出来る限りのことはしたと思っている。そのOさんは、札幌の私立大学を(法学部と経済学部)二学部卒業し、更に国家公務員採用試験T種に合格しており、部長クラスまで昇進できる実力があったと言われている。
さて、視覚障害者になった、Oさんのサポートをやめる事にしたその理由は、残念なことに私の支援が当たり前になってしまったという事だ。
例えば、Oさんの職場や自宅のパソコンに音声装置を備え付けたり、ソフトの使い方の説明や、インターネットのセッティング、パソコンのサポート等は、私の好意で行っていたが、いつの間にか、それが当たり前になり、最終的には事務部からではなく、Oさんからの要求になってしまった。
Oさんは、もともと技術職員だったので、私との意思の疎通は円滑だった。
しかし、Oさんは、ガン保険で有名なM事務長の推薦で、北大事務局に異動することになった。当時、学部から北大事務局に異動すると言うことは、事務職員にとって、立身出世のための第一段階だったそうだ。最終的には、文部省に異動し、キャリア官僚の仲間入りをする事が夢だったようだが、東大卒の文部省採用でなければその願いは無理だと思った。
それよりも問題は、Oさんが北大事務局に異動したときも、Oさんは教職員組合に所属していたため、M事務長から「俺の顔に泥を塗るつもりか」と怒鳴られたという。つまり、M事務長は「組合をやめろ」と言うと問題になるため「俺の顔に泥を塗るつもりか」と言って、組合をやめさせたのである。
私にも、同じような経験がある。
叔父(私の父の姉の旦那)が、北大事務局の経理部長をしていたとき「施設部の方に来ないか」と誘われたことがある。と同時に「組合に入っているとダメだ」とも言われた。やはり、北大が「文部省北海道出張所」と呼ばれるだけあって、文部省の茶坊主集団である北大事務局の組合嫌いには、一段と磨きがかかっていたようだ。
「公務員の争議行為は違法だ」などと不当な攻撃をかけ、組合潰しに奔走した現認隊の中心的存在であった、K氏やI氏は、定年退職後、六〇代で死亡した。おそらく「組合潰し」に躍起になり過ぎて、寿命を縮めたせいだろう。
そもそも、北大事務局や事務部職員と、研究室の教職員とは昇進のための条件が大きく異なっている。
例えば、研究室の助教授(現在は准教授)や助手(現在は助教)そして、技術職員は、研究論文や講演などで、実績が認められれば、博士号を取得することもでき、昇進の道が開ける。
一方、事務系職員は、文部科学省の指示通り動かなければ、出世ができないだけではなく、地方に左遷される可能性もある。
従って、文部科学省が「右向けば右、左を向けば左」と、いいなりにならざるを得ないのである。当然の事ながら、文部科学省は、時の政府である自民党の悪政のために動くため、教職員はたまったものではない。
北大事務局や事務部職員は「善悪」ではなく「損得」で動いているようにも思える。現認隊の中心的存在であった、K氏やI氏は、組合潰しの成果が認められ、それぞれ事務長や事務部長へと栄華栄達を果たしたように見えたが、早死にした。天は人の行為の善悪を見ているのかも知れない。
教職員組合は、教職員の生活と権利を守る闘いを中心に、日米安保反対、沖縄基地問題、ベトナム反戦運動、消費税導入反対、スト権奪還、文科省検定教科書問題、年金改悪問題など、諸問題の解決を訴えた。
それに対して、文部科学省の茶坊主集団は「現認」と称して「組合潰しに奔走」したことは、絶対に許される事ではない。
時代劇のセリフではないが、弱き職員を弾圧した「現認隊」には、もはや見る夢はないのである。地獄の果てまで追い詰め「弱き職員の生き血をすすり、不埒な現認行動、醜い茶坊主集団は、迷わず地獄に堕ちるがよい」とでも言ってやりたい。
最後に一言。
私は、教職員組合の執行委員などの経験は、一度もないことを述べておく。
また私は「事務部主導による技術部の創設に組合員が協力」したことに対し異議を唱え、1990年代に教職員組合を脱退した。
2015/03/16 『2024/1/3 カラー写真化版掲載』
石川 栄一
過激派による理学部襲撃、抗議デモ、封鎖解除、機動隊導入の記録映像
『文部省北海道出張所』 大学紛争と文部科学省の茶坊主集団の話 (保存PDFファイル) |
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